ネタバレなしでは語れない

映画大好き。感想はネタバレしないと語れないので、思いっきり結末にふれています。

T2 Trainspotting

「夢中になれるものを探せ」と言われたスパッドが、ボクシングジムから出てくる。

目の前を20年前のレントンが駆け抜けていく。それを見送る現在のスパッド。一人きりになったスッパドを引きの画で映したのが、この映画の救いだった。

 

前作は今作を見る前日DVDで見た。当時見に行こうとは思っていたのに、タイミングを逃してしまい、結局見ずじまいだった。

T2を見て最初の感想は、あぁちょっときついなーだった。

前作で「未来を選べ」とあるが、彼らに選べる未来はなくて、仲間を裏切って大金を一人占めするという選択をしたレントンも、今作では結局エディンバラに戻ってきてしまう。

20年前に比べて綺麗になった街並みで、彼らは相変わらずだった。それが嬉しくもあり、悲しくもあった。今でも彼らに選べる未来なんてないのだ。

だから、スパッドが、クスリをやめて、レントンやシックボーイがやっても、自分はやらなかったことに、書くことで自分を表現できることを知ったことに、希望をみた。

スパッドが見送った20年前の自分たち。20年前と同じように街を駆け抜けても、音楽にのって踊っても、騒いでも、クスリをやっても、どこかに物悲しさがつきまとう。20年前には笑って見られた馬鹿な行いが、今回は笑えない。おかしいのに笑えない。

レントンも、シックボーイも、ベグビーも気がつかないが、スパッドだけがそれを客観視出来ている、それが映像的に表現されていたのが、最初に書いたシーンだったように思うのだ。

 

本当にきつかったんだけど、監督が4人を描く姿勢に愛があって、「お前ら、馬鹿だな―。まだそんなことやってんのか」って、シックボーイのバーで一緒にお酒飲んでる感じがする。彼らの姿は、今の自分にも重なってくるのだ。さっき、気がついてないって書いたけど、気がついてないわけがない。年をとってきて、周りは変わっていく中で、自分たちだけが変わっていない、変われないことに焦りを感じていないわけがない。

タイトルである「トレインスポッティング」の意味が明かされるシーンで、ベグビーの父親が出てくる。ベグビーが力に物を言わせる性格になってしまった一端が垣間見れる、酒におぼれて暴力的な父親。これをベグビーの将来と見たら、辛いんだけど、父から息子への連鎖を断ち切る存在として描かれているのが、ベグビーの息子だ。嫌々つきあった父親の泥棒行為を拒絶し、大学で勉強したいとの意思を表明する。殴れと迫る父親に手をあげなかった息子に、やはり希望をみた。

 

辛いし、物悲しいし、笑えるのに笑えないけど、これ以上はないくらい彼ららしい続編だった。

 

僕と世界の方程式

お父さんが言う「数学という才能があるから特別なんだよ」「人と違うから特別なんだよ」に、引っかかりを覚えながら見ていた。
ネイサンは確かに数学が得意。でも、まだ幼くて、これから成長して世界が広がれば自分より数学ができる人もいるだろうし、ネイサン自体の興味も数学以外に向くかもしれない。その時、ネイサンはどうなってしまうんだろうって、ことが引っかかってたんだと、チャン・メイを追うために数学オリンピック本番の会場から飛び出したけど、その後どうしていいか分からなくなってレストランで一人座ってるネイサンを見て気がついた。

合宿で会った自分より数学ができる人たち、勉強についていけず、コミュニケーションも苦手でメンバーの輪にも加われないネイサン。人と違うことがアイデンティティーだったのに、ここでは「人と違うこと」が普通のことになってしまう。そん中、ペアになったチャン・メイに惹かれていくが、母のジュリーから「数学よりも大切」なのか聞かれても、そんなわけがないと否定してしまう。

「数学という才能があるから特別なんだよ」「人と違うから特別なんだよ」
ネイサンは苦しんでいたんだと思う。その言葉を残して亡くなった父親の気持ちに応えたいと、数学を頑張っていたんだと思う。
大事な試験の時に必ず現れる、光の点滅。数学オリンピック本番でも現れ、それが何だったのかが明らかになる。
お父さんが亡くなった時に、ネイサンが見ていた光景なのだ。信号機の黄色、お父さんの流す血の赤、自分から流れる血の赤、泣き叫ぶお母さんの姿、割れたフロントガラスと、その向こうの光。
励ましてくれていたお父さんの言葉に、いつの間にか縛られるようになっていたのだ。それを振りきってネイサンは会場を飛び出す。

正直、「もったいない」と思ってしまった。
でも、ネイサンの目が真剣だったから止められなかったというマーティンと、彼にお礼を言って、ネイサンを決して責めないジュリー、そして、思い切って飛び出したはいいけど、どうしていいかわかんなくて、自分の行動にも戸惑ってるネイサンを見て、よかったねって思った。
特に、マーティンがネイサンを止められなかったことに、彼の変化を見て嬉しかった。
マーティンも数学オリンピックに出場するほどの頭脳の持ち主。だけど、病気のために数学を諦め、教師をしていた。昔を知るリチャードは、病気を言い訳に逃げただけだと手厳しい。数学を諦めたことも、病気のことも、何も気にしてないかのように飄々と振る舞っているマーティンだが、押しつぶされそうな不安を薬で抑え、ジュリーへの好意もなかったことにしていた。最初は鼻で笑っていたグループセラピーで、プライドを引きはがし、病気のことジュリーのことを告白するシーンは、私の中でのハイライトだった。
これがなかったら、マーティンはネイサンを止めていたと思う。そう思ったのは、「自分の教え子が数学オリンピックに出たこと」にアイデンティティーを見出す可能性があるから。でも、今のマーティンは、そんなものなくても自分の足で立っていけるのだ。
それはこれからのネイサンの姿でもあると思うのだ。ネイサンが世界と繋がる方法は数学だけじゃないはずだ。

見終わって、才能を生かさないなんてもったいないって思った自分に、人の人生にもったいないって失礼だろうって思った。ネイサンにしてみたら大きなお世話だろう。才能をどうするかなんて本人が決めることだ。人の人生にもったいないなんて言ってる暇があったら、マーティンのように、自分の足で立つことを目指さなければならない。
あと、「もったいない」には、せっかく頑張ってきたのに努力を無駄にするなんてもったいない、って気持ちもあった。だから、人の人生に、、、以下略。

ただ、女性陣の描写がちょっと残念だった。
ジュリーがネイサンを責めなかったのは確かによかったんだけど、ただ、あれだけ育てるのに苦労してたら文句の一つも言いたくなると思うのだけど。物分かりよすぎない?
チャン・メイは、合宿初日の夕食で、叔父が、あごで彼女にお茶を注ぐように命じるシーンがあって、姪だからなのか、女性だからなのか、その両方なのか、叔父が彼女のことを一族のための「道具」としてしか見ていないような描写がきつかった。でも、それ以外はただネイサンに寄り添ってるだけの存在としか見えなかった。残念。

あと、ルークが一人で繰り返し見ているDVDと、腕の傷のことを思うと胸が締め付けられる。数学なんか好きじゃないと自傷してしまう姿は、ネイサンの心の中でもあったんじゃないかって考える。だから、きっとルークにも数学よりも大切なものが見つかるはず。人と交わるための頑張りも、今回は失敗したけど、きっとうまくいくはず。でも、一人だと辛いから、マーティンを受け入れてくれたようなグループがあったらいいな。

モアナと伝説の海

「お嬢さん」に続いて、これもMADMAXFR!しかもこちらは、明らかに影響を受けている描写があり、テンションがあがる。
それは、モアナを襲うココナッツの海賊、カカモラの海賊船を見た瞬間、「これ、MADMAXじゃん、シタデルじゃん?!」と思った。戦闘シーンや移動方法も影響受けていて、見ていて楽しかった―
勝手に、他にも、モアナが自ら船を操るシーンにウォータンクを運転するフュリオサを重ね、イワオニさんたちが爆破してくれたような谷の崩落もあり、マウイが体を張ってテ・カァの雷を受ける場面ではニュークスを思い出し、涙。そして、ラストは、もう分かってる。マウイは来ないの。涙。
見終わってからネットで検索して、監督の一人がカカモラの戦闘シーンはMADMAXFRからインスピレーションを受けたと話している記事を読んだ。やっぱり!
関係ない箇所にまで、思いっきりMADMAXFRと重ねて見たけど、映画自体も素晴らしかった。(説得力ないかもだけど)

自分の心は、何を求めているのか、それをずっと問いかけてくる映画だった。
小さい頃から、どんなに父親に止められても海の向こうへの憧れを止められなかったモアナ。一度は諦め、村長の誓いの石を積もうと思ったその日、祖母から隠された伝説を聞く。それは、自分たちは元々冒険の民だったということ、そして、自分は海から授けられた緑に輝く石を、テフィティに返す使命を担っていることを知る。そしたらもうモアナの心は止められないのだ。

マウイを言いくるめ、テフィティの元を目指すモアナ。モアナもマウイも、正義感の強いまっすぐないい子ちゃんなんてありきたりな描き方をされていない。駆け引きもするし、ずる賢いし、弱いところもある。そんな奥行きのある描写が嬉しい。
そして、最初モアナは船を操れない。あんなに海の向こうへ出ることに拘っていたのに、モアナの島ではサンゴの向こうには出ていかない時期が長かったため、長い航海に耐えうる操縦や方角の読み方などの技術が受け継がれていないのだ。モアナは初めから何でも持っているお姫様ではない。冒険を通じで自ら獲得していくのだ。
あと、居心地のいい描写だと思ったのが、村長の娘であるモアナが村長になることに、「女のくせに」とやっかむような描写や、モアナが悩む描写がないこと。ディズニーではその段階は、もう描く必要もなく当たり前のことなんだろう。素晴らしい。
調子のいいマウイも、子供の頃親に捨てられ半神として生きてきた過去を持つ。テフィティの心の石を奪ったのも、人間に認められたかったから。変身するための神の釣り針を取りかえしてから、マウイの心の象徴であるタトゥーは、左胸、つまり自身の心から問いかける。「自分はどうしたいんだ」
周りから認められるとか、どう思われたいかより、自分の心はどうしたいのか、にマウイの意識が動いたのだ。

それは、モアナにも訪れる。テ・カァの雷を受けたマウイが去ってしまった後、モアナは海に石を返す。私にはできない、もっとふさわしい人がいるはずだと。その時、亡くなった祖母が現れる。そして、問う。「自分はどうしたいのか」
モアナは海に飛び込み石を探す。誰かに与えられたのではない、今度は自らが選んで石を掴みに行くのだ。

ラスト、モアナは、村長の誓いの石の上に貝殻を置く。それは、物語の始まりに海からモアナが贈られた貝殻だ。貝殻の上に石はもう積めない。もう誰も村に縛られることなく生きていく、そういう未来を目指す、それは、モアナの宣言のように思えるのだ。

ロザーナ

祝福のムードに包まれた再集結の時を経て、吉井さんが「勝負の年」と言った今年、一発目に鳴らされた新曲「ロザーナ」。
勝負の年の幕開けにふさわしい、決意を感じさせる曲として響いた。

キーボードで始めまるイントロに、正直、初めは若干の違和感を覚えた。ただ、そこにギター、ドラム、ベースが絡んでくると、一気に曲が転がりだす。


冒頭の歌詞「フワリフワリ乗っかった 黒いサルサのような 祝い のろし上げて 祝福の乾杯だよ 踊ろう ロザーナ」は、「祝福のムードに包まれた再集結の時」を表しているように思う。
そこに留まることなく、彼らは「長い旅」に出るのだ。
「長い旅」で思い出すのは、113本のパンチドランカーツアー。ツアー終了後、休養の期間を経て作成されたアルバム「8」。その中にある「DEAR FEELING」を、「ロザーナ」を聞いて思い浮かべたのは、同じフレーズがあるからだ。
「ふわりふわりと音をたてずに」
歌詞に「心の羽根」とあることから、「DEAR FEELING」では、羽根が舞い落ちる様子が思い浮かぶ。音も立てずに、誰にも気づかれないように。
「ロザーナ」では、「サルサ」のフレーズから、踊る女性のスカートが翻る様を想像した。祝福の乾杯をする大勢の人たちの視線を一人占めするように、彼女は舞うのだ。その女性がロザーナなのかもしれない。彼女は自信に充ち溢れている。誰にも気づかれないようになんてできない、もっと自分を見てほしいと、堂々と踊るのだ。
と、勝手に他の曲と並べてこじつけ。そのこじつけは続く。

「問題ない そう問題ないよ 太陽もうなずいたよ」と慎重な様子もうかがえるが、この後に私が最も惹かれた歌詞が来る。

「神様にしかチェスは動かせないの?」

疑問の形を取っているが、ここからは自らがチェスの駒を動かすのだという、意志が伝わってくる。神様が用意してくれた運命というものに、従うも従わないも自由、それを自らの意志で選びとっていくという思い。その旅の中で、「凍り付くような悲しみ 溶けるほどの喜び」といったような様々な感情を味わいながら、「答え」を探すのだ。
ここの「迷い続けた答えはなんて言ったの?」という歌詞は、後述するが、これが彼らの出した答えのように思う。

「ロザーナ」中最大の謎、「覗いてキャベツの中」。急にキャベツ、なぜにキャベツ?
気になって調べてみたら、キャベツに花言葉があることを知った。
「巻いた葉の中に利益のある『宝物』が入っているようなイメージから、利益」が花言葉だという。西洋では中に赤ちゃんが入っているとイメージされるとのことで、実は、これを知る前に、ツイッターのTLにキャベツに乗った赤ちゃんの写真が流れてきて、ちょっと驚いたのだ。
覗いた中にあるのは、宝物、赤ちゃん=新しい命。吉井さんがモバイルサイトの中で、ロザーナは「新しい自分」の象徴であるかもしれないと書いていたが、そのことが伝わってくる。そのことは続く「大きな卵の殻 割れて現れた魂が 歌った」でより明らかになる。

この歌詞を聞いて真っ先に思い浮かんだのは、渡辺あやさん脚本の朝の連続テレビ小説カーネーション」のワンシーン、直子覚醒だ。大阪から東京に出て美術の学校に通うことを決めた直子だが、着て行く服が決まらず、高校の制服で上京する。姉に馬鹿にされながらも制服で通い続ける直子は、ある時自分は何者か、自分は洋服を通じて何を表現したいのかに気がつく。その時象徴的に使われるのが、卵が割れるという表現だ。その直前、子供のころから聞いていただんじりの音、お母ちゃんのミシンの音、そして自らが手を動かして描くデザイン画の鉛筆を走らす音が重なりあう。それらの音は直子の内側で鳴っている音なのだ。それが頂点に達したとき、卵が割れる。直子の中で何かが目覚める。その後の直子は、自分の好きな格好を堂々とする。母親にお化け、姉にオウムと思われようが、誰にどう思われようが関係ないのだ。
他の曲どころか、バンドとは全く関係のない、自分の好きなドラマを引用してのこじつけ。楽しい。
そして、「大きな卵」=「BIG EGG」と、東京ドーム公演とかけていて、吉井さんのお得意の遊び心がのぞく。

つぼみの中、キャベツの中、卵の中。内側で温めていた「新しい命」は、自らが積み上げてきた音を鳴らすことで、その姿を表に現す。それが、「答え」だ。
先述した、「迷い続けた答えはなんて言ったの?」がここに繋がる。答えは自分の中にあって、それを答えとして発見するのも自分自身ということ。

そして曲のハイライト、「ドアを開けたら 見たような見たことない景色が キレイな色で塗りなおされて見えた」
だから、私はTHE YELLOW MONKEYを聞くのだ。同じような毎日が違って感じられる、そんな感覚をくれるから。

「ロザーナ」から受け取るメッセージは、自分たちは自分たちの信じた音を鳴らし続けるということ。やっぱり彼らは現在進行形だ。
デビューの日に当たる、5月21日には、ベストアルバムをセルフカバーしたアルバムが発売される。過去の音源が今の彼らの音でどう鳴らされるのか楽しみだし、「追憶のマーメイド」が入っているのがさらに期待を高める。
そして、吉井さん曰く「新しいファーストアルバム」でも、その音を聞かせてくれるという。楽しみだ。

お嬢さん

第三部になったとき、これ以上のどんでん返しがないようにと、そればっかり祈っていた。スッキと秀子に幸せになってほしいと思っていたから。


これはMADMAXFRだと思った。女性が自分の意志で、女性同士の連帯で解放を勝ち取っていく映画。We are not thing映画。


騙す側と騙される側であるはずの二人が、次第に心を通わせていく。叔父の上月によって外界と遮断され、広大な屋敷の中だけで生きてきた秀子。屈辱的な内容の本を朗読させられ、男性たちの前で見世物のように扱われてきた秀子。今いる世界が世界のすべてだと思いこんでしまったら、そこから逃げ出すことは容易ではない。まず、逃げ出すという考えすら浮かばないかもしれない。それでも、秀子は藤原に計画を持ちかけ、自らの意志で屋敷から、上月から逃げ出そうとする。
スッキもまた、詐欺師だった親に早くに死なれ、自身も詐欺を繰り返して生きている。大金を手にしたらそんな生活に別れを告げて、新しい場所でやり直すつもりでいた。
誤算は、秀子だった。秀子にとっても誤算はスッキだった。自らの欲望のために、騙そうと思っていた相手に惹かれていく。


第一部で、藤原と結婚したら夜をどう迎えていいか不安だという秀子に、スッキは手ほどきをする。ニ部になったらわかるのだが、秀子は知識はあるのだ。だから途中で態勢が逆転して、秀子が積極的になった時、スッキが「なにも知らないお嬢さまがどうして」ってうろたえるのがユーモアがあっておかしい。おかしいけど、悲しい。
終わった後、藤原との結婚をそれでも勧めるスッキを、秀子は思わず叩いてしまう。ようやく出会えた心を通わせられる相手、スッキに拒絶された悲しみに秀子は自殺を図ろうとする。それを止めたのはスッキだった。互いの計画を告白した後、秀子がスッキを連れていったのは、朗読が行われる部屋。
上月の仕打ちを聞いたスッキは、怒りに身を震わせ、手当たり次第本をぶちまけていく。秀子を、大切な人を傷付けた本を。最初はあっけに取られて、その姿を見ているだけの秀子だったが、怒りの収まらないスッキが、床にあった水槽の中に本を蹴りいれていくのを見て、控え目ながら同じ行動をとる。
我慢してたけど、ここで涙腺崩壊。
秀子を屋敷につなぎとめる、見えない鎖を断ち切ってくれたのはスッキだった。こんなことは間違ってると、はっきり拒絶していいのだと、こんなことさせるのは許さないと、怒りを表明してくれた。
その後、藤原にばれないように手を組む二人。屋敷の塀を越えるのをためらう秀子に、スッキはトランクを積み重ね階段を作ってやる。屋敷の外に広がる草原の中を走る二人の姿は、本当に美しかった。涙でよく見えてないんだけどね。
そして第三部へ。藤原目線進んで、2人が引き裂かれてしまったらどうしよう、それはいやだ、二人には幸せになってほしいと祈った。そればかり祈ってた。

ミステリーは推理をせずに、手のひらで転がされて、そういうことか!と驚くのが好きな見方。そこも綺麗に騙されて、面白く見られた。

 

真珠色の革命時代

メカラウロコ27の「真珠色の革命時代」を配信で聴いて、最初に思ったのは、「変わった」だった。
何と比べてかと言うと、ライブアルバム「SO ALIVE」のそれ。どっちがいいとか悪いとかではなく、どっちが好きとか嫌いとかでもなく、ただ「変わった」と思った。

たまたま昨日読んでいた「BRIDGE1999.8」は、パンチドランカーツアーを終え、ライブビデオとライブアルバムを発表するタイミングで行われたインタビューだった。その中で、ツアーファイナル1日を納めたライブビデオがツアーそのもの総決算なら、ライブアルバムはバンド10年の総決算だと語られていた。そのライブアルバムの最後を締めくくるのが「真珠色の革命時代」だ。
ビデオはツアーを通じで完成した曲「SO YOUNG」で終わっている。アルバムもそうなってもいいのではとインタビューアーの話に、メンバーは「SO YOUNGで終わりたくないではなく、真珠色の革命時代で終わりたかった」と言っている。吉井さんは、「いろんな人がいいって言ってくれるけど、言うほどかなと思っていた。今回ミックスしてるときに、いい曲だな、若い時のイエローモンキーもやるなと思った」と言っている。この曲はアマチュア時代に「これからデビューします」ってライブで披露した曲だとヒーセが明かしてくれた。
それを聞いてインタビュアーは言う。「デビューからずっとツアーを続けてきたんだね」

この号は、4人が「ロックとは何か」「バンドとは何か」「ツアーとは何か」について話す構成になっている。音楽を取り巻く状況も変わり、バンドという形態に拘らなくても、ツアーをやらなくても、もっと楽な方法で音楽をやることはできる。ロックに拘るなんて古臭い、時代も変わってるんだしという風潮にも、彼らは、「自分達はこれが好き」と貫き通す。いや、貫き通すなんてかたっくるしいものではなく、好きだからこうする、だ。
試行錯誤してきたけど、今自分たちが見せられるのはこれと、アマチュア時代から演奏してきた「真珠色の革命時代」をラストにもってくる。変わっていないんだということと、変わってきたんだということを同時に感じさせる。
メカラウロコ27の「真珠色の革命時代」に感じたのは、「変わってないけど、変わってきた」ということだ。今年でデビュー25年、解散していた期間は約15年。その間に積み重ねたもの、手放したもの、手に入れられなかったもの。それらを全部ひっくるめて鳴らされた音。

変わることも、変わらないことも、恐れることなく、彼らは現在進行形で音を鳴らす。
変化を恐れるようになったのは、いつ頃からだろう。歳をとるのが怖い。でも、彼らと共に歳を重ねていけるなら、それは悪いことじゃない。

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インサイドヘッドとあやさんのお誕生日

なんて力強いメッセージをくれるんだろう、と映画館で初めてみた時に思った。
「頭のなかってどうなってるんだろうって考えたことない?」というヨロコビのナレーションではじまる。あるある。可視化された頭の中は、楽しそうだった!

ライリーという女の子の頭の中が舞台。ヨコロビ、カナシミ、ムカムカ、イカリにビビリ。人格化した5つの感情が物語を進めていく。
それぞれに色があって、ヨロコビの記憶は黄色、カナシミは青、ムカムカが緑で、イカリは赤、ビビリは紫。それらの感情を伴った思い出がどんどん蓄積されていく。その中でも「特別な思い出」と呼ばれるものが、ライリーの性格を形づくっていく。
その「特別な思い出」とヨロコビ、カナシミが司令塔からいなくなってしまい、ライリーは感情をうまくコントロールできず、転校先の学校でも、家族とも関係がうまくいかなくなってしまう。
ヨロコビとカナシミが司令塔に帰るまでの物語。
最初、ヨロコビはカナシミのことを疎ましく思う。ライリーには幸せになってほしいから、悲しい感情なんて持ってほしくないのだ。
その気持ちが変化していく。
2人はライリーの空想の友達、ビンボンと出会い、ビンボンの案内で司令塔に戻ろうとする。その途中でビンボンは、ライリーを月に連れていく約束を果たすために持っていたソリを、忘れられた記憶の谷に捨てられてしまう。
飴の涙をこぼすビンボンに「起きてしまったことは仕方がない、司令塔を目指そう」とヨロコビ先を急がせる。泣きやまないビンボン。カナシミがそっと寄り添う。「大切なものを失うのは悲しいよね」と。それで泣きやみ歩きだしたビンボンを見て、ヨコロビはなぜビンボンが立ち直ったのか分からない。
それが分かるのは少し先のこと。
ライリーの「特別な思い出」を見ているときのこと。それはアイスホッケーの仲間と大切な試合の後の喜びあっている記憶。しかし、カナシミは言う。「この大切な試合でシュートを外してしまったライリーは、ホッケーを辞めようと思うくらい落ち込んだ」と。怪訝に思ったヨロコビがその記憶を巻き戻してみると、仲間の輪から離れ、木の上で一人落ち込むライリーの姿が映し出される。そしてライリーの元にパパとママがやってくる。二人の間で涙を流すライリー。その後仲間たちが慰めてくれる。それが最初にヨロコビが見ていた記憶の瞬間なのだ。
「悲しみを共有できたから特別な思い出ができた」ことに気がついたヨロコビ。

ヨロコビは超ボジティブ。暗闇でもどこからでも分かるくらい他を惹きつける光を放ち、何度失敗しても絶対に上手く行くと挑戦を諦めない。でもそれは時に自分を傷付けたり、大切な何かを失ってしまうこともある。ボンビンが忘れられた記憶の谷に消えたように。
カナシミは後ろ向き。いい思い出もマイナスにしかとれないし、すぐにもうだめーと言う。でも、カナシミは立ち止まって次にどうしたらいいか考える時間をくれる。辛い心に寄り添ってくれる優しさを持つ。
どんな感情もいいだけでもなく、悪いだけでもない。それは、ムカムカもイカリもビビリもそう。

司令部に戻った二人。家出をしようとしたライリーを心配するパパとママを前にして、ヨコロビはカナシミに感情を任せる。
引っ越し先の家はさびれていて、荷物を乗せたトラックはまだ着かず、パパの仕事も上手くいかないでパパもママもイライラ。そんな中家族を気遣って明るく振る舞っていたライリー。ママはその明るさが救いだと言ってくれたが、引っ越しなんかしたくなかったし、友達とも離れたくなかった、ミネソタに帰りたい、お願い怒らないでと涙を流す。
悲しいという感情を抑えて明るく振る舞っていたライリーが、悲しみを取り戻すのだ。ライリーの本当の気持ちを知った両親は、優しく抱きしめてくれる。
そして、黄色と青の混ざった記憶のボールが、特別な思い出として頭の中にやってくる。

最初に書いた「力強いメッセージ」というのは、3つあった。
ひとつが、俗によくないと言われる、悲しみや怒りの感情も、否定しなかったこと。
「悲しむのはよくない」って言われると、私の感情を否定しないでほしいとよく思っていた。悲しみも怒りも、よかろうが悪かろうが全部自分の感情だと、そう言ってくれたことが嬉しかった。
そして、「よかろうが悪かろうが」って書いたけど、感情にいいも悪いもないというのが2つ目のメッセージ。
3つ目は、ライリーが成長していくにつれて、色の混じったボールが増えてくる。司令塔の感情のコントローラーも大きくなり、ボタンも増え複雑になる。これだ。感情は複雑だ。私は複雑だ。シンプルなんかじゃない。
自分の感情をもてあますとき、きっと記憶のボールはカラフルで、今までに見たことのない色をしているのだろう。そう考えると、ワクワクするのだ。

今日2月18日は渡辺あやさんの誕生日。大好きな脚本家。あやさんが脚本を担当した「合葬」の感想を書きたくて、このブログをはじめたのだ。
あやさんは講演会をあまりしない。脚本以外の媒体で文書を書くことがほとんどない。それはなぜなのかとの問いに、この映画のワンシーンを例に出して答えていた。
「私にとって、自分の考えというのは単なる業務用の材料みたいな感じで、どさっとおいておかないといけないものなのですね。」それを人前で話すとなると、わかりやすいように言葉をきれいにしないといけない、だけどそうなってしまったものは、「脚本を書くときにあまり役に立たないわけです。だから、なるべくどさっと汚いまま置いておきたいのですね。
このあと映画の考えの列車に乗るシーンにふれている。
近道のため危険と書かれた部屋に入ったキャラは、3Dから2D、さらに記号になってしまう。「自分の考えていることが記号になってしまうと脚本に使えない材料になってしまうので、あの「考えの列車」に乗せないようにしているんだと思います。」

あやさん、お誕生日おめでとうございます。またあやさんの作品に出会えること楽しみに待っています。