T2 Trainspotting
「夢中になれるものを探せ」と言われたスパッドが、ボクシングジムから出てくる。
目の前を20年前のレントンが駆け抜けていく。それを見送る現在のスパッド。一人きりになったスッパドを引きの画で映したのが、この映画の救いだった。
前作は今作を見る前日DVDで見た。当時見に行こうとは思っていたのに、タイミングを逃してしまい、結局見ずじまいだった。
T2を見て最初の感想は、あぁちょっときついなーだった。
前作で「未来を選べ」とあるが、彼らに選べる未来はなくて、仲間を裏切って大金を一人占めするという選択をしたレントンも、今作では結局エディンバラに戻ってきてしまう。
20年前に比べて綺麗になった街並みで、彼らは相変わらずだった。それが嬉しくもあり、悲しくもあった。今でも彼らに選べる未来なんてないのだ。
だから、スパッドが、クスリをやめて、レントンやシックボーイがやっても、自分はやらなかったことに、書くことで自分を表現できることを知ったことに、希望をみた。
スパッドが見送った20年前の自分たち。20年前と同じように街を駆け抜けても、音楽にのって踊っても、騒いでも、クスリをやっても、どこかに物悲しさがつきまとう。20年前には笑って見られた馬鹿な行いが、今回は笑えない。おかしいのに笑えない。
レントンも、シックボーイも、ベグビーも気がつかないが、スパッドだけがそれを客観視出来ている、それが映像的に表現されていたのが、最初に書いたシーンだったように思うのだ。
本当にきつかったんだけど、監督が4人を描く姿勢に愛があって、「お前ら、馬鹿だな―。まだそんなことやってんのか」って、シックボーイのバーで一緒にお酒飲んでる感じがする。彼らの姿は、今の自分にも重なってくるのだ。さっき、気がついてないって書いたけど、気がついてないわけがない。年をとってきて、周りは変わっていく中で、自分たちだけが変わっていない、変われないことに焦りを感じていないわけがない。
タイトルである「トレインスポッティング」の意味が明かされるシーンで、ベグビーの父親が出てくる。ベグビーが力に物を言わせる性格になってしまった一端が垣間見れる、酒におぼれて暴力的な父親。これをベグビーの将来と見たら、辛いんだけど、父から息子への連鎖を断ち切る存在として描かれているのが、ベグビーの息子だ。嫌々つきあった父親の泥棒行為を拒絶し、大学で勉強したいとの意思を表明する。殴れと迫る父親に手をあげなかった息子に、やはり希望をみた。
辛いし、物悲しいし、笑えるのに笑えないけど、これ以上はないくらい彼ららしい続編だった。