ネタバレなしでは語れない

映画大好き。感想はネタバレしないと語れないので、思いっきり結末にふれています。

高慢と偏見とゾンビ

こういう恋愛映画が見たかった。
作中で一番ロマンチックに見えた場面は、エリザベスとダーシーが、地面から湧き出てくるゾンビを二人で刺すシーンだった。エリザベスは恋をしても武器を捨てることはしない。
この、武器を自らが持つこと、その武器を男性に恋をしたからといった理由で捨てないことがこの映画最大の素晴らしいところだと思った。

古典的恋愛小説の名作「高慢と偏見」が、ゾンビがはびこる世界を舞台に展開されると聞いて、なんだ、それ、と正直見る前は思いましたよ。
ところが、紛れもなく描かれているのは「高慢と偏見」の世界。とんでも設定かと思いきや、とんでも設定なんだけど、しっかりと「高慢と偏見」の感情の揺れ動きや、プライドゆえに素直に相手を見られないところが描かれていて、それが何の違和感もなくゾンビの世界で繰り広げられている。見事な融合。
それが一発でわかるように描かれていたのがベネット家5人姉妹登場のシーン。まず、ここでやられた。だって、皆して銃を磨きあげているんだもん。そこに母親が、隣に金持ちの独身男性ビングリーが引っ越してきたと喜びながら入ってくる。彼も参加する舞踏会に行くためコルセットを締めあげ、ドレスに着替える5人。ガーターに武器を仕込むシーンのかっこよさと美しさ。
小説「高慢と偏見」に描かれている18世紀イギリスの価値観、女性は結婚する以外生きていく道はないのだからできるだけ金持ちをつかまえる、と、ゾンビのはびこる世界で生きるための価値観、自分と大切な人を守るため女性も武道を身につける、という2つの価値観が見事に融合された、映画の世界観に一気に引き込まれたシーンだった。

舞踏会で一目で恋に落ちる5人姉妹の長女ジェインとビングリービングリーの友人ダーシーは、舞踏会に男目当てで来る女性陣がお気に召さない様子で、エリザベスのことを「たいして美しくもない」と言ってしまい、それを聞いてしまい落ち込むエリザベス。
そこに大量に入り込んでくるゾンビ。ドレスの下に仕込んだ武器で、身につけた武道で、バッタバッタとゾンビを倒していく5人姉妹。
それを見ているダーシーの目、完全に墜ちてます。恋に。私も。
5人姉妹なら、エリザベスだけが強いのかと思うでしょう、ところが5人とも強い。この設定に拍手。舞踏会終わった後、姉妹で彼、どうだったーって話が始まるんだけど、それが訓練しながらで、笑った。拳や蹴りを受けながら、吹っ飛ばされながら、「あんな高慢な男見たことない」って、ダーシーのこと報告するエリザベス。いや、普通に座って話せよ。

闘うエリザベスを見て恋に落ちるダーシー。ビングリーもジェインのその姿を見ているが、それが原因で気持ちが冷めることはない。
ダーシーが嫌うのは、5人姉妹の母親の価値観の方だ。ジェインをビングリーに嫁がせるのは、彼が金持ちだからだと言うのを聞いたダーシーは、ビングリーにジェインはふさわしくないと、二人の仲を引き裂く。
18世紀の価値観を生きる人物がもう一人、5人姉妹の従兄で、ベネット家の相続人、コリンズだ。彼はエリザベスにプロポーズする際、もうゾンビと闘うのはやめてほしいと言う。それは、結婚したら仕事を辞めてほしいとか、働き続けてほしい(けど、家のことはちゃんとやってね)とか言う現代でも聞く話のよう。話し合いはするかもしれないが、結婚後に仕事を続けるか辞めるか、ゾンビを倒し続けるかを決めるのは、結婚相手の男性ではなく、彼女自身なのだ。
コリンズの申出を断ったリザに、母親はこう言う。「私はどうやって生きていけばいいの」と。女性に財産の相続権がなかった時代、女性が生きるには金持ちの相手と結婚するしかなかった。その価値観で生きてきた母親が、こう憤るのも当然。
ところで、このコリンズが、ひと目見ただけでいけ好かないキャラというのが伝わってきて、役作りに拍手。

作中笑ってしまったシーンも多い。
隣の女性も笑っていたのが、エリザベスが死肉ハエを素手で捕まえるシーン。
ビングリー家へ向かう途中、ゾンビと遭遇したジェインは戦いの末ゾンビを負かすが、熱を出してビングリー家で倒れてしまう。ジェインのゾンビ感染を疑うダーシーは、こっそりと、ゾンビを見分ける能力を持つ死肉ハエを放つ。見舞いに来たエリザベスは、姉の身を心配しながらも、空中で素早くハエをキャッチ。見ることもなく、つまり音だけでハエを追って、一発でしとめる。全部取った後、握りつぶしてダーシーに返す。って何このシーン、書いてておかしいわ。
エリザベスはダーシーがハエを放つシーンを見ていないから、気配で感じたんだろうね。こういうとこにも、ダーシーは惚れちゃったんだろうね。もちろん私もね。

ダーシーはついにエリザベスにプロポーズ。からの、闘いのシーンもおもしろかった。何故この場面で闘う。でも、エリザベスはダーシーのベストを割き、ダーシーもエリザベスの胸元を切る、というシーンで納得。2人は闘うことで気持ちを確かめあっているのだ。文字通り胸襟を開いて。
プロポーズが失敗に終わった後、ダーシーは日本刀で植木に切りかかる。エリザベスもコリンズからの求婚後、むしゃくしゃした気持ちを剣を振り回すことで解消している。この二人、似た者同士ですね。
ちなみに、金持ちのダーシーやビングリーとその妹たちは日本で修業し、そこまででもないベネット家は中国で修業したという設定。細かいけど、身分の差を表していて面白い。

笑えるシーンやとんでもなシーン見ても、2人の恋愛に結び付けてしまうほど、物語に入りこめたのは、小説「高慢と偏見」と、組み合わせた舞台の世界観が同じ熱量で描かれていたからだと思う。ただの設定に陥ってなくて、きちんと物語の中に組み込まれているのがよかった。
感想の中で、ダーシーがエリザベスに墜ちる瞬間、私も墜ちてると書いてるが、これは、エリザベスに墜ちるのはもちろん、それ以上に作品に墜ちているということです。

そして、物語はクライマックスへ。コリンズと結婚すると言いだしたエリザベスの妹は、ウィカムにそそのかされ、ゾンビの集う教会へと連れ去られてしまう。
ウィカムについては、割愛。
妹を助けに向かうエリザベスとジェイン。ゾンビのいる地域へかかる橋は、時間になったら爆破されることになっており、時間はない。その途中、ゾンビに襲われているダーシーをエリザベスが助け、最初に書いた二人で地面から湧き出るゾンビを刺すシーンが出てくる。
ダメ押しで、ゾンビ化したウィカムに襲われ、ダーシーあわやという時、表れるのは白馬に乗ったエリザベス。なんだよ、王子かよ。
妹も無事で、エリザベス&ダーシー、ビングリー&ジェインの結婚式でラストと、思ったら、エンドロール途中で切れて、ゾンビが向かってくる。この、ラストもらしくて好きだった。

ハドソン川の奇跡、なんかじゃない

少し前、ツイッターで「女性映画が日本に来るとこうなる」というハッシュタグが話題になった。女性の自立や強さ、女性を取り巻く厳しい社会をテーマにしている作品が、恋愛や癒し、母性を前面に押し出したポスターやキャッチコピーにされている。
日本が女性から何を奪おうとして、どういう枠にはめようとしているかが分かりやすく可視化されていた。それに腹も立つけど、何より、このせいでどれだけ自分好みの作品を見逃していたんだと思うと、ほんと腹が立った。
この映画は女性映画というカテゴリーではないのだけど、見ながら邦題あってなくないかと思い、「女性映画が日本に来るとこうなる」を思いだしたのだ。これは、奇跡なんかじゃない。

原題は「Sully」。主人公の愛称。タイトル通り主人公の目線で物語は進んでいく。彼の知らないことは画面にほぼ映らない。これは彼の物語。
まず、奇跡なんかじゃないと強く思ったのは、彼の葛藤だ。
物語は飛行機がニューヨークの街中に突っ込むシーンではじまる。次に目を覚ますサリ―。冒頭の映像はサリーの夢なのだ。この時にはすでにハドソン川への不時着水後。
また、サリーはニュースキャスターに「あなたは自分のことを英雄だと思っているのか」と聞かれる夢を見たり、バーのテレビで自分が映るニュースを見ているとき、サリーに気がついている他の客の「機長が二人いる」という言葉に、本当の自分はどっちなのか見失うようなシーンがある。
彼は自分の判断が本当に正しかったのか、他に選べる道はなかったのかという葛藤を抱えているのだ。

もうひとつの理由は、彼の職責の強さ。
不時着水後の機内を最後まで取り残されている人がいないか確認する。生存者の数を自分で確認しようとする。副機長に指摘されるまで、濡れた制服を着続けていることにも気がつかない。
最大の見せ場は、公聴会だと思う。
そこで披露されたシュミレーションでは、空港に引き返して無事着陸して終わる。それにサリーは異を唱える。エンジン停止後、シュミレーターはすぐに空港に引き返すという判断を下す。しかし、実際、そこには判断するための手段と時間が存在するはずだと。その時間13秒を待って、再び空港に引き返すシュミレーションを行うと、飛行機は着陸できないという結果が出る。
しかも、サリーは事前に公聴会でシュミレーションを公開するよう自ら要請しているのだ。
これが、本当にすごいと思った。物語の中でも緊張感の増す見せ場で、当事者であるサリーの緊張や不安なんかそりゃ、そうとうなものだろう。そんな中でも、彼は冷静だ。パイロットという仕事、役割への理解の高さが感じられる。
サリーが、事故調査委員会が「墜落」って表現するのを、一回一回「不時着水」って訂正するのもよかったな。こういうシーンの積み重ねって大事。


あと、キャッチコピー「155人の命を救い、容疑者になった男」にも違和感。私は、現実の事故自体は知っていたけど、その後を知らなかったから、映画を見る前は、サリーが訴えられたのかと思っていた。

映画の中で、サリーも事故調査委員会も原因を究明しようとしていて、誰も彼を裁こうとはしていない。サリーも責任を逃れようなんて考えもない。ただ、どういった判断を積み重ねて不時着水という選択をしたのかを説明していく。その姿勢が本当に素晴らしかった。

調べてみたら、「ハドソン川に奇跡」と言ったのは、ニューヨーク州知事だったのね。実際に使われた言葉だけど、映画の中に描かれたのは、やっぱり奇跡なんかじゃないと思うのよ。
奇跡って、いいことだけど、この映画で使ったら、サリーが積み重ねてきたものとかが否定されてしまうように感じるの。

この物語は、彼を奇跡を起こした英雄にはしない。一人の人間として描く。だから、原題がふさわしいと思った。

クリード チャンプを継ぐ者

勝敗は関係なく、リングに上がり続けることが大切だというロッキーシリーズのメッセージは受け継ぎつつ、リングから降りたロッキーも優しく描き切った作品だった。

 

ロッキーシリーズを1本も見たことがなかったので、見てから行くか、秋に診てしまうか迷っていたところ、趣味の合う友人から1作目のロッキーとファイナルがおすすめと聞き、2作品見てから鑑賞。この作品自体は過去作を見ていなくても楽しめるように作られていますが、見ていってよかったと思いました。それは、フィラデルフィアの街並みを時間の経過と共に見られるからです。ロッキー自身とフィラデルフィアの様子はリンクして描かれているように思いました。

 

1作目のロッキーでは、フィラデルフィアは雑然とした貧しい地域のように見えました。治安もあまりよくはなさそう。そして、ロッキーは世界王者のアポロと戦います。今から抜け出そうという力強さを感じる作品でした。

ファイナルでは、寂れています。エイドリアンの働いていたペットショップは潰れ、デートをしたスケートリンクは跡かたもありません。マリーの家の隣はボロボロです。全盛期からは遠のいたロッキーの姿と重なります。そんな境遇に甘んじることなく、年齢を言い訳にすることなく、ロッキーは戦います。

冒頭に書いた、リングに上がり続けることの大切さを強く描いた作品です。

 

そして、今作クリードフィラデルフィアは小ざっぱりとしています。荒れた雰囲気もなく、現代の街並みです。そこにやってくるドニー。ロスからきたお坊ちゃんと揶揄されて迎い入れられますが、その彼が、フィラデルフィアに居場所を作っていきます。

彼の人物造形も現代的だと感じました。ビアンカがボクシングはもっと不良がやるものでしょというニュアンスのセリフを言います。ドニーはたぶん大学も出て、証券会社で昇進もし、将来を期待された優秀なビジネスマンです。養母メアリーアンに大切に育てられてきたことがうかがえます。

それでも彼の中で消化しきれない、父親への葛藤。会社を辞め、プロボクサーを目指すと決めた夜、彼はユーチューブで父アポロと、ロッキーの試合を見ます。しばらく眺めていた後、画面の前に立ち、映像に合わせてパンチを繰り出します。見なくても次にどんなパンチがくるか、どう動くかが体に染みついているんです。何度も何度も見たのでしょう。このシーンは、辛かった。なぜなら、彼が映像に合わせてパンチを打つ相手が、父アポロだからです。ドニーはロッキーと同じ動きをして、父親を打っているのです。

 

ドニーはプロになるため、ロッキーに指導してほしいと頼みに行きます。フィラデルフィアで、ロッキーは、レストランを経営し、エイドリアンとポーリーの墓に話しかけるのを日課にして生活しています。ジムには顔を出しておらず、ボクシングからは距離を置いているようです。現代的なフィラデルフィアに取り残されているように感じました。

そこに現れるかつてのライバル、アポロの息子。申出を断るロッキーでしたが、引き受けてからの様子がよかった。とにかく楽しそうなんです。朝練に向かうのに、ドニーが起きたときには準備万端で、ウキウキしながら音楽をかけてステップを踏んでいます。ドニーの隣でパンチングボールをニコニコしながら打っています。ロッキーはやっぱりボクシングが好きなんだなと改めて感じるいいシーンです。

ドニーは素直にロッキーの指導を受入、メキメキ成長していきます。でも、父親がアポロだということはどうしても口にすることができません。ジムのオーナーの息子との試合の直前、それがばれそうになりますが、ロッキーが止めます。彼に父親の名前を背負わせないでやってくれと頼むセリフに、かつて父の名前の重さに悩んだロッキーの息子、ロバートを思い出しました。

試合に勝った翌日、ドニーの出自がスクープされます。かつての世界王者の愛人の息子、トレーナーはそのライバルだったロッキーとくれば、世間が放っておきません。問題を起こして引退寸前の世界王者コンランから試合の申出があります。ドニーの実力ではなく、話題性に飛びついてのことでした。条件として、父親の名前で出ることが求められます。ためらうドニー。父親の名を背負い、負けてしまうことを恐れるドニーに、ビアンカは関係ない、勝っても負けてのドニーはドニーだと励まします。

タイトルマッチに向けて特訓を重ねるドニーの周りには、彼を支えるチームがあります。ロスからきたお坊ちゃんと笑われていた時から、彼は自分の居場所をこの街に作り上げたのです。そして、試合の直前、同じくらい大きな支えが届きます。息子に父親と同じ道を歩んでほしくないとプロになることを反対していたメアリーアンからです。赤と白のストライプ。クリードと刻まれたボクサーパンツを身につけて、ドニーはリンクへ向かいます。

激しい打ち合いの試合で、ドニーはKO寸前。リングに倒れ込んでしまいます。その時、走馬灯のように記憶が蘇ります。メアリーアンと初めて会っとき、ロッキーやビアンカ。そして、父アポロの姿。その瞬間、ドニーは意識を取り戻し、立ち上がります。もう、涙が止まりませんでした。映像に合わせて父を打っていた時、ドニーにとって父親は倒すべき存在でした。それが、励まし、応援してくれる存在に変わったのです。

判定でドニーは負けます。でも、判定を聞かないうちに彼らはリングを降ります。勝ちも負けも関係ない、力の限り闘うことが大切だというロッキーシリーズの力強いメッセージです。

ただ、今作では、もうひとつのメッセージが描かれています。それは、リングを降りたロッキーに対するものです。

 

時間はタイトルマッチの前に遡ります。練習中に、ロッキーはリングの上で倒れてしまいます。診断の結果は、癌。初期段階だから化学治療で治るという医師に対し、かつて同じ病気で苦しんだエイドリアンを思い、治療を拒否するロッキー。生きてほしいというドニーの気持ちに応え、治療を受け入れるロッキー。でも、ロッキーはもうリングに立つことはできません。それを象徴するシーンとして、リング上で倒れたロッキーをドニーが起こし、「リングを降りるよ」という場面があります。

1作目では、ロッキーは自分自身もリングに立つことを望み、周りもそれを期待しました。

ファイナルでは、ロッキー自身にリングに立ちたいという気持ちはありましたが、周りは反対しました。

これからは、ロッキー自身も、周りも望まないでしょう。それでも当たり前ですがロッキーの人生は続きます。

ラスト、いつも訓練で駆け上がっていた階段を、ドニーに支えられてようやく登り切ります。そこからの眺めは、かつてのフィラデルフィアとは変わっています。1作目で大通公園のような緑の帯が見えた風景が、ビル群に変わっています。物語の始まり、現代的になったフィラデルフィアに取り残されたように見えたロッキーでしたが、この場面のビル群はロッキーのこともドニーのことも包み込んでいるように見えました。

これから成長していくドニーのことも、リングに上がることはないロッキーのことも、同じように受け入れているように感じたのです。これが、今作に感じたもう一つのメッセージです。

人は誰でも、いつかリングから降りるときが来ます。年齢的なことかもしれないし、年齢とは関係なく自ら望むことかもしれないし、望まなくても否応なしにそうなることもあるかもしれません。リングに上がれなくなったロッキーに価値はあるのか??もちろんある。いや、価値なんてどうでもいいのかもしれない。自らが選んだ人生を、否応なしに選ばされた人生を、引き受けて生きていくこと。その大切さが描かれていました。

でも、それは違うリンクで生ていくこととも言えます。書いていて気が付きました。ロッキーシリーズのメッセージは、一貫されていました。

ぼくらの家路

この邦題、好きじゃない。ジャックの苦しんだこととか、傷ついた気持ちとか、そういうのなかったことになってる気がする。

 

目を覚ましたジャックは、弟を起こし、食事の用意をして食べさせてやる。母親の姿はない。自分は食パンをかじりながら学校へ向かう。多分、毎朝繰り返されている光景だろう。

しっかりしているジャックが、わざと我儘を言う場面が出てくる。

母親と彼氏がベッドにいる部屋に、分かっていて、お腹が空いたと入っていく。母親は怒るでも驚くでもなく(彼氏は驚いて憤るが)、裸のままキッチンへ行き、食べるものを出してやり、食べるジャックを見守る。

翌朝、母と弟と遊んでいると、彼氏が混ざってくる。それまで楽しんでいたジャックは冷めた目で彼の洋服や靴を窓から投げ捨てる。ここでも母親は怒らない。怒る彼氏からジャックをかばう。そして、怒って出ていった彼を追いかけていく。

戻ってきた母親は不機嫌で大きな音を出して皿を洗い始める。ジャックは様子を窺うように飲みかけのコップを持って母親の側に行く。

母親は仲直りの印とばかりに、ココアを入れてやる。嬉しそうに飲むジャックと、見守る母親。

母親がジャックに怒らないのは、甘えだと思った。

この、ジャックが彼氏を怒らせるようなことをする、母親が困る、ジャックが機嫌を窺う、母親はジャックを許すという一連の行為は、何度も繰り返されているような気がする。

これによって母親は母親でいられて、ジャックは子供でいられると確認し合っているように思うのだ。

ジャックは、それしか方法を知らないのだ。母親はこの方法に甘えているのだ。

 

ジャックがこの連鎖を断ち切ったのが、母親の「短い間よ」の一言。

短い間とは、母親と連絡がつかなかった3日間のこと。ジャックはこの間に弟を守るために知恵を働かせ、怖い目にもあい、不安で、心細くて、辛かったと思う。ジャックが強くあろうとすればするほど、見ていて辛かった。

母親の元カレらしきレンタカー会社に勤める男性の元でも、ジャックはマヌエルのように安心して寝ることもなく仕事をする。ジャックが安心して子供になれる時間なんて、この3日間一度もなかったのだ。

母親はそれに思い至ることもない。

子供になれる時間って書いたけど、残酷な表現だと思った。子どもで「いられる時間」じゃなくて、「なれる時間」。マヌエルのように寝られる時間があって当然なのに、ジャックにはそれがない。

 

このまま母親と一緒にいたらダメだと直感したとき、ジャックの表情が、一瞬強張ったように見えた。

靴紐が結べるようになったよと母親に見せるマヌエルと、それを褒める母親。ジャックはそこに交わらず、一人で食事を続ける。苛立っているように見える。ジャックは感情を表すことがほとんどない。辛すぎる全編で涙するのは一度だけ。代わりに自分がどれだけ泣いたか。

 

この3日間のことは母親に言っても分かってもらえない。絶対言わないとばかりに、母親に残したメッセージが書かれた紙を握りつぶすジャック。

翌日、母親を起こさないようにマヌエルを連れて家を出る。行き先は予想がつく。絶対当ってる。だから辛い。だって、それは大人のすることだ。

この映画には大人が2人しか出てこない。施設の先生と、レンタカー会社の元カレだ。母親の勤め先や友人たちはあまりにも無関心だ。

先生は施設からいなくなったジャックを連れ戻しに家まで来る。

元カレは警察に連れて行こうとする。ジャックは拒み逃げるが、警察に行ったら、施設に戻されることは間違いない。

施設に戻させるという選択をするのは大人の役割だ。それをジャック本人に、弟の手まで引かせてさせるのは、すごく酷だ。

インターホンに「ジャックです」と名乗って物語は終わる。原題は「JACK」。このタイトルがぴったりだと思う。ほんわかした邦題も、「子供が大人になる切なくも希望に満ちた瞬間を切り取った感動の物語」ってコピーも気に入らない。

ジャックは大人になったんじゃなくて、ならざるを得なかったんだよ。いつかは誰だって大人になる。でも、それを急がないといけなかったジャックを見て、私は辛かった。もっと子供でいさせてあげたかった。それが許されない環境だったんだよ。希望になんて満ちてない。少なくとも、ジャックの胸の内に希望なんてなかったと思う。それでもそう決断せざるを得なかったジャックが、少しずつでも安心して寝られるようになればいいなって、そう願った。その積み重ねの先に、ジャック自身が希望を見出せたらいいなと思った。

マジック・マイクXXL

テルミーワイにのせて踊るリッチーには、笑った。楽しんだ。彼らの肉体に、美しいなぁと見とれた。

でも、ローマの会員制のクラブで行われている、お札が飛び交い、見世物のように男性と女性が絡み合う場面は、正直戸惑った。

 

どう見ていいのか分からないのだ。恥ずかしさと嫌悪感と好奇心と罪悪感と、様々混じり合って、笑えないし、楽しめない。どう見るかなんて、自分で決めることなのに、それができない。

複雑な気持ちのまま見ていると、離婚で傷ついた心を癒したいから、ここに来たという女性が登場する。男性は彼女のために君はスペシャルだと歌う。

傷ついた心を癒しに来た彼女と、それを引き受けてくれる男性。

ここは、そういう場所なんだと思ったら、私は楽しめると思った。

 

でも、まだ晴れないモヤモヤがあった。それは、傷をいやすという条件がないと来たらいけないのか?純粋に楽しみたいでもいいじゃないか、という思いだった。

「傷をいやす」という条件を勝手に設けているのは自分。自分の欲望を受け入れるのに、「傷をいやす」という条件を設けないと受け入れられないことに気がついたのだ。

そう思ったら、純粋に楽しみたいって気持ちで訪れることもありだと、理解できた。

 

なぜ条件を設けなければいけなかったのかといえば、女性は自らの性欲をあらわにするべきではない、それをするのははしたないことだ、に縛られていたからだ。その結果、自分の欲望なのに、自分でそれが分からなくなっていた。特別な条件、つまり言い訳がないと楽しめない。だから、純粋に楽しみたいという思いだけでくることに、当初拒否反応を示していたのではないか。

 

楽しんでしまえばいいのだ。彼らはそれを引き受けてくれるプロだ。見に来ている人が楽しめるように、いい気分になって帰れるようにパフォーマンスを考え、体を鍛え、ダンスに磨きをかける。

ステージシーンはローマのMCが最高。煽り方にも品があって、ダンサーに対する敬意も忘れない。

観客の女性たちもいい。照れて、恥ずかしがりながらも、ニヤニヤが止まらない。まさに見ている自分の姿。

 

観客たち見てたら、女友達数人で笑って、騒いでみたいなと思った。条件がないと自分の欲望を受け入れられないと気がついたのは、見終わった後だから、ステージシーンのパフォーマンスは、ちょっとまだ楽しむことに罪悪感を持ったままだった。それでも十分楽しかったけど、きっと今ならもっと楽しめる。

チョコリエッタ

チョコリエッタから知世子を解放する物語、だと思う。そう説明していたし。

 

幼い頃、父の運転する車で事故に遭い、母親を亡くした知世子。犬のジュリエッタだけが心の支えだったが、10年後、そのジュリエッタも死んでしまう。悲しみにくれた知世子は、「犬になりたい」と進路調査票に書く。

知世子は大人になりたくないのだ。だから少年のように髪を短く切って、自分の進路を真剣に考えない。チョコリエッタと母親が呼んだ名前でいれば、母親の思い出に浸って生きていけると信じているよう。

ただ、なぜ知世子は母親が亡くなって10年も立ち直れなかったのか、なぜ心の支えがジュリエッタだけだったのか、なぜ犬になりたいのか、分からない。

大切な人を亡くして悲しいから、なのは当然分かる。でも、その分かるは、知っているであって、物語の中での知世子の悲しさが分からない。それを映画の中で感じさせてほしい。共感させてほしいということではない。知世子にとっての解放が何を意味するのか、映画の中で描いてほしいのだ。

 

正宗は爺様の呪いにかけられてると、知世子は言う。両親の離婚で傷ついた正宗をバイクで連れ出して色々な景色を見せてくれた。映画という楽しみも教えてくれた。いい爺様だと思うのだけど、どこが呪い?

正宗は、悩んでいる様子もないのに、海で「うんこまみれの世の中には流されない」といきなり叫び出す。お気楽そうに見えたけど、そう見えても誰にだって悩みはあるよね、というのは分かる。でも、これもやっぱり知っているなのだ。

正宗も何かに縛られていたのだろうかと想像してみる。爺様の呪い、浪人、潰れた爺様の病院。本当は医者になりたくないけど、爺様の病院を立て直すために医大を受験するとか、病院再開したいけど、医大に入る実力がなくて苦しんでいるとか思いつく。でも、悩んでいる描写がないから、正宗が何に縛られ、解放された状態が何を指すのかが結局わからないままだった。

 

知世子がなぜ母親の死から長いこと立ち直れなかったか考えた。映画ではそうとは描かれていないけど、父親ではないか。

事故後、病院のベットで目を覚ました知世子に、霧湖が「お父さんは隣の部屋で寝ているよ」と言うので、父親は生きていることが分かる。16歳になった知世子の物語が始まるが父親が出てこない。なかなか出てこないので、父親も死んだのかと思った。

ようやく出てきた父親は、夜テレビをつけっぱなしにしたままソファで寝ている。毛布をかけてやろうとして、知世子の手が止まる。バサッと投げるようにかける。もしかして、知世子は父親のせいで母親が死んだと思っているのかと思った。でも違うのだろう。父親はこっれきり出てこない。

そして、この後の父親の台詞が怖い。「そろそろ霧湖を解放してやれよ」

霧湖は父親の妹で、事故後、一緒に住んでいる様子だ。10年ぶりに彼氏ができて、旅行に行くという話を聞いて、知世子は不機嫌になる。家はきれいに片付いている。霧湖の彼氏は「知世子ちゃんが高校卒業するのを待って結婚しようと思っている」と言う。霧湖は文句を言うが、彼氏がその言葉を知世子に言ったことに対しての文句であって、台詞の内容にではない。怖い、怖すぎる。

父親は、母親の死後、親の役目を放棄し、家事や知世子の世話を霧湖にさせていたんじゃないかと思った。

何よりも霧湖の解放を私は望むよ。

 

「合葬」の悌二郎役の岡山天音さんが出てると知って楽しみだったんだけど、先輩役で「私たちのハァハァ」の文子役、三浦透子さんも出ていた。お二人同時に見れて、得した気分。

私たちのハァハァ

初めてのバイト代は、当時大ファンだったバレーボール選手を見に行くためのチケット代と交通費に消えた。選手と交流できる懇親会もあった。参加費が5000円だった。今なら迷わず出せる5000円が、当時高校生だった自分には、一緒に行った友達とどうするか数日迷うくらいの大金だった。そんなことを久しぶりに思い出した。

彼女たちにはお金がない。その徹底した書き方が面白かった。

いよいよ切羽詰まった時、一ノ瀬が実はバイト代があると、気まずそうに打ち明ける。

学生時代は「お金がない」の大合唱だった。それで繋がりを保っていた側面もある。だから、一ノ瀬がずっと言えなかったこと、言うときの気まずそうなところがリアルだった。

 

好きなバンドのライブのために、北九州から東京まで自転車で行く、という笑っちゃうくらいのバカさの中に織り込まれる現実的な描写がいい。

 

周りはなんとなくでも進路が決まっていることに焦りを覚えるチエ。

見た目の評価を突き付けられる現実。それに対して血液型Bって答えればよかったなと努めて明るく振る舞うさっつんと、受け入れられず必要以上に卑屈になる文子。

車に乗せてくれた中年の男性には「長時間の運転大変ですね」って気を使えるのに、年齢が近い佐々木には遠慮がない4人。

 

もうどうしようもないってなった時にケンカをする文子とチエ。チエが勢い余って「本当はクリープハイプのことそんなに好きじゃなかった」と言わなくてもいいことを言ってしまう。思い出したのは、カラオケでクリープハイプを歌って盛り上がる4人。

まさか本当に自転車で行くとは思っていなかったチエは、漕ぐのが大変な車輪の小さい自転車で来る。

三奈子の部屋でDVDを見ながら、こんなに好きなのに実際に会って思ってたのと違ってたらどうしようと、いらぬ心配をするほどのめり込んでいる文子。

互いの熱量の違いは書かれて、お互いそれに気がついていたはず。それでも、好きって思う熱量が違っても一緒には楽しめる。それまで築いてきた関係と、違うなりにも思いを共有してきた時間があるから、また4人でライブ会場を目指すのだ。

 

ステージに上がってしまった4人に、三奈子が怒りをあらわにするシーンがある。

ファンを描いた映画だという監督がインタビューで言っていた。クリープハイプのファンなのは4人だけじゃないって言ってくれているようで、安心した。彼女たちの行動を、ファンだからこそ快く思わないという、このシーンが好きだ。何かや誰かのファンになったことがある人なら絶対共感するシーンだと思う。

 

お金がないのは、本当に徹底されていて、会場まで行く電車代がないのだから、当然北九州まで帰るお金はない。結局親を頼らざるを得ないという描写が誠実だなと思った。

 

大好きだったバレーボール選手は、怪我でこなかった。バイト代つぎ込んだのに、悩んで悩んで懇親会費も振り込んだのに、会えなかった。何しに行ったんだろうと思った。

自分の高校時代を、そんなにいいもんじゃなかったけど、でも、そこもひっくるめていいもんだったんだなと、懐かしく思い返した青春映画だった。