ネタバレなしでは語れない

映画大好き。感想はネタバレしないと語れないので、思いっきり結末にふれています。

ケンとカズ

職場の前でカズを待つケン。そこに来たケンが、カズの後ろからお尻を軽く蹴る。それを合図に歩きだす二人。会話はない。
あぁ、この距離感。
パチンコに行って、帰り道、ここでも会話もなく、2人のバックショット。
あぁ、この距離感。
別れるとき、何か言いたそうなカズの表情。子供のことが切り出せない。

この一連のシーンがすごく好き。冒頭の車の中の会話と、事務所でのカズがいないところでのテルや社長の口ぶりから、ケンとカズの関係が浮かび上がってきて、最初に書いたシーンに繋がる。シーンや会話を積み重ねて関係性を描く上手さに惹きつけられる。
この時、既にカズは、ケンの彼女、早紀が妊娠していること、そのことをケンが切り出せないことを知っていたのだろう。
なぜ自分だけに言いだせないのかも、ケンが子供をきっかけにこの仕事を辞めようとしていること、カズは全部わかっている。
「子供ができたからって、てめえの都合だけで辞めるじゃねえんだよ」
このセリフは、きつかった。どこかでカズを信じたい気持ちが、私の中にあったのだ。早紀と別れろ別れろと言っていたけど、子供ができたと知ったら祝ってくれると思っていた。たぶん、ケンもそうだったんじゃないか。
このことと、カズに認知症の母親がいることをケンが知ってしまったこと。
この2つをきっかけに、ケンとカズの関係が変わったように見えた。ケンがカズのお兄ちゃん的存在に見えていたし、周りもしっかり者のカズと言うこと聞かないケンって扱いで、ケンの面倒はカズが見てるって雰囲気だったけど、カズのケンに対するライバル心とか、優位に立ちたい気持ちとか、引き留めたいこと、もう引き返せない、これを選ぶしか道はないという悲しいまでの覚悟を感じて、対等になろうとするカズの姿が見えた。

ケンにとって、「父親」という存在はなんだったのだろう。
「あんたなんか父親になれるわけないじゃん」と早紀に言われた時、ケンは手をあげる。
一方的にカズに殴られていたとき、殴り返すのも、父親になんかなれないの言葉だった。
藤堂から、父親になるんだから、と言われると、嬉しそうにほほ笑む。
ケンは、人生を変えようと思っていたんだ。子供のことをきっかけに覚せい剤の世界から足を洗って、早紀と三人で生きようと思ってたんだ。
「子供ができたからって、てめえの都合だけで辞めるじゃねえんだよ」カズのセリフでつきつけられる厳しい現実。どうにかならなかったんだろうか、他に方法はなかったんだろうか。

裏社会とか覚せい剤の密売とか聞くと、薄暗い画面を想像する。
この作品の画面は明るい。日の光の中だ。それが一層厳しさを突き付ける。
日常と隣り合わせなのに、遠い。
国広を襲うのも、覚せい剤の取引しようとするのも、カズがさらわれるのも、日の光の下。藤堂の事務所も普通の部屋。カズが囚われる場所も事務所の一室とか倉庫じゃなくて橋の下だったり、どこにでもありそうな場所で行われることに、より一層絶望する。どこにでもある日常に溶け込んでいるからこそ、そこから抜け出すことのむずかしさを思う。
ケンのこともカズのことも、かわいそうとは思わない。自業自得とも思わない。ただ、違う人生を、望む人生を選ぶことはできなかったのか。そうさせてあげたかったと思った。

見終わった後、予告を初めて見て、カズがケンに「おまえがここ誘ってくれてよかったよ。一人じゃ今頃何しているか想像もつかねえ」って言うセリフが流れて、2人の関係を表してるセリフだなと思った。これを映像だけでも見せてくれたから、この作品好きなんだけど、欲を言えば、テルも含めた3人でバカ話とかしてるシーンをもっと見たかった。わちゃわちゃが足りない。そんなん見たら、もっと辛くなるのは分かってるんだけど、だって、カズはケンのこと大好きじゃない!?もう行動、セリフ、全身からカズが好きって叫んでた。ケンもカズのこと可愛いと思ってるじゃない!?手のかかるほっとけない弟みたいな。そんな2人の関係性を勝手に読み取ってしまったから、見たくなるのは仕方がない。

ブリジット・ジョーンズの日記

15年前は本も読んだし、映画も見た。今回の続編の公開は、今さら感が否めなかったんだけど、見てよかった。2016年版にアップデイトされている。
誰にも否定されない世界って、こんなにも心地がいいものなのか!!
とにかく泣きましたよ。
一人で行って、隣も女性一人、逆の横は女性2人組、前後も女性ばかり。鼻すすってる人もいっぱいいる。隣のおひとりの女性とは同じタイミングで、ずずってやったよね。あぁ、現実の世界で頑張ってるブリジットがこんなにいる。

まず、いいなと思ったのが、ブリジットが妊娠したことで自分を責めない。年齢とか父親のこととかキャリアのこととか、もう考えれば考えるだけ自分を責める要素があるんだけど、もちろん自己嫌悪に陥ることはあっても、彼女は必要以上に自分を責めないし、必要以上に反省もしない。そうだった、ここがブリジットの長所だった。立ち直りの早さは健在。
そして、周りも。妊娠したことを喜んでくれる。2人の父親候補も。
妊娠を女性一人の問題にしない。女性一人に背負わせない。相手と共に向き合っていくものとして描いている。
女友達描写も良かったんだけど、産婦人科の先生がよかったー
無痛分娩にするには遅すぎてそのまま生むことになったブリジットに、ジャックが「気持ちがあれば痛くない」的なことを連発するんだけど、先生の「子ども一人出すのに痛くないわけがない」みたいな言葉はスカッとした。

そして、マーク・ダーシーのかわいさかっこよさ。噂に聞いていた以上。
赤ちゃん教室で、ジャックとカップルと勘違いされたときと、過激なパフォーマンスグループの裁判に勝って、彼女たちがマークへの感謝を体で表現したときの、どう反応していいかわかんなくて、無表情になるマーク、かわいい。
ブリジットに妊娠したと告げられて、「失礼」と部屋の外に出るの、かわいい。どうやって喜んだのか知りたい。何事もなかったかのように戻ってくるのもいい。
ブリジットに陣痛がきたとき、マークに仕事の電話がかかってきて、仕事が忙しくてジャックより側にいてあげられることができなかったことを反省したうえに、たぶんてんぱったのだろう、携帯を窓から投げるマーク。なにやってんだよ笑!案の定、ブリジットから救急車はどうやって呼ぶのと突っ込まれる。
あと、これは、マークというより、演じているコリン・ファースの魅力全開な場面なんだけど、久々に再会して、ブリジットの待っているホテルの部屋に入ってくるマークが、うす暗い中たたずんでいるその姿が、とてつもなく色っぽい。

そして、ブリジットが一番欲しかった言葉、生まれてくるのが自分の子じゃなくても、その子のことも愛しているって、言ってくれる。
ジャックの嘘で、マークはお腹の子が自分の子じゃない可能性が高いことを知り、ブリジットの前から去る。そして、戻ってきたときには覚悟を決めてきたんだね。

出産がいいことばかりじゃないのは、それはそうなんだけど、それでも妊娠したブリジットを祝福し、誰も責めないこの世界は、見ていてとても励まされた。
妊娠だけじゃない、結婚しないこと、子供をもたないこと、女性を縛るたくさんの「こうでなければならない」から解き放たれた世界は、とても生きやすそうだった。

あと。サブタイトルはあまりにもひどいのでタイトルにいれませんでした。

何者

何者と永い言い訳。自意識過剰で、少し性格が悪くないと、響かない作品かもしれないとの感想を読んだ。両方とも響きました、えぐられました。

烏丸ギンジに向けた拓人の言葉「頑張ってるところを人に見せるのはまだ何者でもないから」は、拓人が頑張ってるところを、みっともないところを人に見せない理由だ。それは、まだ何者でもないことが周りにばれるのが怖いから、自分で認めるのが怖いから。

拓人と理香って似てるなと思いながら見てた。対極にいるのが、光太郎と瑞月。拓人は光太郎の内定先を小さいところだと影で笑い、梨花は瑞月のそれをブラックで検索をかける。拓人は人を見下すことで、理香は頑張ってることをアピールすることで、かろうじて自分を保っていた。やってることは逆でも同じ。誰かと比較しないと自分のプライドを保てない。
演劇関係は食べていけないから受けないと言いながらそこの面接を受ける拓人。名前のあるところより即戦力としてすぐ働けるとことがいいと言いながら大手を受ける理香。

拓人に向けた言葉じゃないけど、瑞月の「10点でも20点でもいいから出しなよ」は拓人にも響いたと思う。自意識過剰人間には、これが難しい。
でも、瑞月の言うように「出してみないと点数なんてつかない」のだ。出してみたら案外よかったということは少ないのだけど、出してみたらどう改善すればいいかがわかったということは、よくある。それの繰り返しで成長していくしかないのだけれど、そんなに頑張ってなんかいませんよって顔して内定が欲しいって、なんでなんだろうね。と思わず自問自答してしまうほど、拓人の中に自分を見てしまう。

理香に秘密にしていたツイッターのアカウントがばれて、どうせ裏で人のこと笑ってたんでしょと言われる。そこに隆良が帰ってくる。
隆良が就活をはじめようと思うから色々教えてほしいと拓人に頼んでくる。「二回目なんだから詳しいだろう」と。ここで拓人が就活浪人をしていたことが分かる。きっと、拓人が一番隠していたかったこと。
理香の部屋を出た拓人は瑞月のバイト先へ。そこで瑞月は、「拓人君の書く舞台好きだったよ」と言う。拓人が学生時代に頑張っていたこと。そして、多分一番みっともなかった姿。なぜみっともなかったかというと、やっている最中は人にどう思われるかを考えていなかったから。自分がやりたいからやる。それだけで動いていた時間。

理香と隆良にみっともない自分がばれて、瑞月にみっともない自分を肯定してもらった。他人に引きはがされたプライド。でも、そのむき身の自分を好きだといってもらえたことで、拓人は救われる。
何者に答えを出すには、必要な行程だったのかもしれない。

そうして迎えた面接。面接は140文字のツイートのようなもの。簡潔に相手に伝わるように。と言っていた拓人が、ラストの面接では自分を1分では表現できないという、人はもっと複雑なのだ。140文字に収めようとするがために、目を背けて、あえて表現しない部分が逆に露わになってくる。それに拓人は向き合い始めた。
先輩のツイッターの画面だけで分かった気になっているなよという言葉とも重なってくる。画面ではなく人と、画面ではなく自分と。

ラストは拓人が面接を受けた会社から出ていく場面のバックショット。出た途端、それまで聞こえていなかった雑踏の音が聞こえてくる。ぱぁっと画面が明るくなる。その中に踏み出していく拓人。予告で使われていたもので、そこで見たときは、「はじまり」を感じさせた。ラストで見ても同じ、ここからが拓人のはじまりなのだ。

THE BEATLES EIGHT DAYS A WEEK

私は、THE YELLOW MONKEYが好きだ。私は彼らをライブバンドだと思っている。メンバー4人がライブを楽しんで、盛り上がり、いい音が出せて、曲作りとか、レコーディングとか、プロモーションなど、色んなことが上手く回り始めると思っている。ライブを軸にしているバンドだと思っている。
そいうい意味で、ビートルズはスタジオバンドだったんだなと、この映画を見て思った。スタジオで4人で音を出し合って、グルーブを構築していく。その過程を楽しんで時間をかけるからこそ、ライブや他のことも上手く行く。メンバーもスタジオで音を作っているときが楽しいと言っていた。
でも、全世界を飛び回るワールドツアー、合間の映画撮影、メディアに追いかけられながらの生活の中で、じっくりと、メンバーでひざを突き合わせてスタジオでの時間を持てるはずがない。当時の熱狂は想像以上だった。

ビートルズのイメージというと、神格化された伝説のバンド。あとは、バンドのイメージというより、ジョンレノン。
でも、4人のバンドだった。ジョンがいて、ポールがいて、ジョージがいて、リンゴがいる。
出てくる写真、映像はとにかく4人の距離が近い。互いを信頼し合ってて、4人で音楽やってるのが本当に楽しそう。ソファーに座ってるときなんて、重なり合ってるよ、絶対。インタビュー受けてるとき他のメンバーがいたずらしたり、ベッドで騒いでたりと、とにかくかわいい。当たり前だけど、私が知ってるビートルズなんてほんの一部分で、しかも作り上げられたものだったんだと知った。生身のビートルズに触れた気がした。

一番印象に残ったのが、白人とそれ以外の席が分かれて行われるライブが当然だった時代に、それにNOを突き付けたこと。かっこいい。これだけ大きなバンドなので政治的な影響力も持っていただろうとは想像できるが、ここまでだったとは。
ご多分にもれずというか、若者が夢中になるものは世間から悪しざまに言われるもので、ビートルズもそうだったよう。アメリカに行った時の記者の対応の冷たいこと。それにユーモアで返していく4人がたのもしい。確かアメリカじゃなかったと思うけど、一番痺れた回答が、何故偉そうなのかと言われて、「質問にはいい答えを出したいと持っているが、悪意のあるものにはいい答えは出せない」というもの。時代におもねることなく、自分達を貫き通したバンドだったんだと思った。はー、かっこいい。当時の若者が熱狂するものわかる。

見終わってから、解散までの顛末を調べた。この映画は4人で音楽やるのが一番楽しいと本人たちも感じている時期を切り取ったものだったんだなと思った。これがビートルズのすべてではないのだろうけど、こんなにキラキラした青春の1ページを見られて、よかった。

タイトルの「EIGHT DAYS A WEEK」は彼らの曲のタイトル。作中でも流れて、週に8日あっても足りないくらいに君のことを愛していると歌う。
なぜこれがタイトルになったのかって考えたとき、週に8日あったら、その1日で、彼らはきっとスタジオでセッションするんじゃないかなって思った。そのくらい、4人で音楽やるのが楽しいって、この映画からは伝わってきた。でも、その1日は休んでほしいと、心から思う。

永い言い訳

夏子に髪を切ってもらう幸夫の姿からはじまる。
家で髪を切ってもらっている姿に、子供の頃母親にそうしてもらったことを思い出した。あながち間違ってはいない連想かもしれないと、見ているうちに思った。
幸夫は徹底的に子供なのだ。それが簡単には変わらない。そして、そこに腹が立つ。幸夫の自己中心的な行動に、過剰な自意識にイライラさせられるのは、そこに自分を見てしまうからだ。あるわーそいういとこ、鏡に映った自分を見せられる気分、あー目を逸らしたい。

幸夫と陽一が対照的に描かれる。
夏子の死後、警察に留守電はなかったかと問われ、ないと答える幸夫。陽一はゆきからの最後の留守電を繰り返し聞いている。
灯にアレルギー反応が出てしまったときも、店の落ち度を責める幸夫と、言わなかった自分が悪いと言う陽一。
2人の対照的な人物設定も興味深かったが、幸夫と真平の配置の方に気持ちがいってしまった。
真平、灯と過ごすようになった幸夫の態度が、柔らかく、対等に思えたのだ。生前の夏子のことを初めて話すのも、真平にだった。そうだ、幸夫も子供だったのだ。
子供たちの面倒を見ているうちに、大宮家との関係も深まり、幸せそうに見える。ようやく穏やかな日常と取り戻したかのように見えてくる。

それが、岸本の一言で変わる。「子育ては男にとっての免罪符」
たぶん、図星なのだ。夏子の亡くなった現実に向き合わず逃げているだけだと言われた瞬間から、だから、幸夫の行動は逃げになる。
灯の誕生会で、子供のことで陽一と口論になった時(というか、幸夫が勝手にいじけて愚痴る時か)、幸夫は、自分達は子供を持たないと決めてたと言うと、陽一が「なっちゃんは欲しかったと思うよ」と返す。
夏子は子供が欲しかったのだ。それを幸夫も知っていたと思う。なぜなら、幸夫の想像の中に出てくる夏子は子供たちと笑っているからだ。4人で海に行く場面で、海辺に夏子が現れる。真平と灯と浜辺で楽しそうに笑っているのだ。ポスターに使われている画がそれ。
夏子は子供が欲しかったんだなと、なんとなく思ったのは、陽一、ゆき、真平、灯と過ごすとき、自分は一人で幸夫はいなくて、家族ぐるみのお付き合いにならないなとそう思ったとき、夏子はどんな気持ちでいたんだろうと想像した。その時、ふとそう思ったのだ。
そう思った場面を思いだそうとしているのだけど、はっきりしない。

海辺で、ゆきを思いだしてすぐ泣く陽一と違い、自分は葬式で泣けなかったと真平が、幸夫にもらす。それは幸夫も同じなのだ。悲しみ方はひとそれぞれ、泣けないから悲しんでいないことにはならない。幸夫は真平を慰めながら、自分にも言い聞かせていたのではないだろうか。
これをきっかけに、幸夫はテレビ番組への出演を決める。私は、自分の悲しみを客観視したいために思えた。
常に自分がどう見られるかを気にしていた自意識過剰な幸夫が、見せ方を演出され戸惑っているところがおかしくて、幸夫の変化だと思った。けど、人間そんなに簡単に変わらないと、西川監督は見せつけてくる。
それが、さっきも書いた、灯の誕生会。そこでの幸夫は、思い通りにならなくていじけて八つ当たりするただの子供。
でも、変化もみえる。夏子の死後、台所も居間も片付いていなかったのに、洗濯物をたたみ、料理をするようになった。
そこに、陽一が事故にあったと真平から電話が入る。真平と二人で、陽一を迎えに行くんだけど、その前に灯を鏑木先生のご両親に預けにいくシーンがあって、それが泣けた。
灯の誕生会で幸夫がいじけたのは、鏑木先生の存在が大きくて、彼女がいることで勝手に疎外感を持って、彼女の両親が子供の預かりをやっているってことも、意地みたいな感じで否定してしまう。
ただ、陽一は、幸夫がこれなくなってから、鏑木先生のご両親に預けていたんじゃないかと思うの。だから、慣れているところに灯を預けに行ったと、幸夫がそう判断したんだとしたら、それは、灯のための行動で、変に意地を張らなくなったことが、彼の変化に感じられたのだ。

向かう列車で、幸夫は真平と向かい合って座る。真平に語りかけながら、これは、幸夫が自分自身に、向き合っているのが可視化されているのだと思った。
ようやく、ここで夏子の死に、今までの自分に向き合うことができたのだ。だから、幸夫は真平と別れて、一人で帰る。トラックから手を振って去る真平を見送るのだ。

幸夫の後ろに理容室の赤と青と白の看板が見える。
ずっと夏子に髪を切ってもらっていたから、これからはどうしたらいいんだろうという、幸夫の弔辞に、きっとラストは髪を切るんだろうなと思った。
ちなみに、この弔辞が夏子の遺品を片づけているときに幸夫のナレーションでかかるので、夏子に対する独白かと思いきや、弔辞だった。幸夫の自意識の強さが表れていて上手い演出だと思った。
それで、後ろの理容室に入るのかなと思っていたら、夏子の店だった。そりゃそうだ。美容室で髪を切る時、鏡に映る自分と対面する。幸夫はこれから今の自分と向き合って生きていくのだ。

高慢と偏見とゾンビ

こういう恋愛映画が見たかった。
作中で一番ロマンチックに見えた場面は、エリザベスとダーシーが、地面から湧き出てくるゾンビを二人で刺すシーンだった。エリザベスは恋をしても武器を捨てることはしない。
この、武器を自らが持つこと、その武器を男性に恋をしたからといった理由で捨てないことがこの映画最大の素晴らしいところだと思った。

古典的恋愛小説の名作「高慢と偏見」が、ゾンビがはびこる世界を舞台に展開されると聞いて、なんだ、それ、と正直見る前は思いましたよ。
ところが、紛れもなく描かれているのは「高慢と偏見」の世界。とんでも設定かと思いきや、とんでも設定なんだけど、しっかりと「高慢と偏見」の感情の揺れ動きや、プライドゆえに素直に相手を見られないところが描かれていて、それが何の違和感もなくゾンビの世界で繰り広げられている。見事な融合。
それが一発でわかるように描かれていたのがベネット家5人姉妹登場のシーン。まず、ここでやられた。だって、皆して銃を磨きあげているんだもん。そこに母親が、隣に金持ちの独身男性ビングリーが引っ越してきたと喜びながら入ってくる。彼も参加する舞踏会に行くためコルセットを締めあげ、ドレスに着替える5人。ガーターに武器を仕込むシーンのかっこよさと美しさ。
小説「高慢と偏見」に描かれている18世紀イギリスの価値観、女性は結婚する以外生きていく道はないのだからできるだけ金持ちをつかまえる、と、ゾンビのはびこる世界で生きるための価値観、自分と大切な人を守るため女性も武道を身につける、という2つの価値観が見事に融合された、映画の世界観に一気に引き込まれたシーンだった。

舞踏会で一目で恋に落ちる5人姉妹の長女ジェインとビングリービングリーの友人ダーシーは、舞踏会に男目当てで来る女性陣がお気に召さない様子で、エリザベスのことを「たいして美しくもない」と言ってしまい、それを聞いてしまい落ち込むエリザベス。
そこに大量に入り込んでくるゾンビ。ドレスの下に仕込んだ武器で、身につけた武道で、バッタバッタとゾンビを倒していく5人姉妹。
それを見ているダーシーの目、完全に墜ちてます。恋に。私も。
5人姉妹なら、エリザベスだけが強いのかと思うでしょう、ところが5人とも強い。この設定に拍手。舞踏会終わった後、姉妹で彼、どうだったーって話が始まるんだけど、それが訓練しながらで、笑った。拳や蹴りを受けながら、吹っ飛ばされながら、「あんな高慢な男見たことない」って、ダーシーのこと報告するエリザベス。いや、普通に座って話せよ。

闘うエリザベスを見て恋に落ちるダーシー。ビングリーもジェインのその姿を見ているが、それが原因で気持ちが冷めることはない。
ダーシーが嫌うのは、5人姉妹の母親の価値観の方だ。ジェインをビングリーに嫁がせるのは、彼が金持ちだからだと言うのを聞いたダーシーは、ビングリーにジェインはふさわしくないと、二人の仲を引き裂く。
18世紀の価値観を生きる人物がもう一人、5人姉妹の従兄で、ベネット家の相続人、コリンズだ。彼はエリザベスにプロポーズする際、もうゾンビと闘うのはやめてほしいと言う。それは、結婚したら仕事を辞めてほしいとか、働き続けてほしい(けど、家のことはちゃんとやってね)とか言う現代でも聞く話のよう。話し合いはするかもしれないが、結婚後に仕事を続けるか辞めるか、ゾンビを倒し続けるかを決めるのは、結婚相手の男性ではなく、彼女自身なのだ。
コリンズの申出を断ったリザに、母親はこう言う。「私はどうやって生きていけばいいの」と。女性に財産の相続権がなかった時代、女性が生きるには金持ちの相手と結婚するしかなかった。その価値観で生きてきた母親が、こう憤るのも当然。
ところで、このコリンズが、ひと目見ただけでいけ好かないキャラというのが伝わってきて、役作りに拍手。

作中笑ってしまったシーンも多い。
隣の女性も笑っていたのが、エリザベスが死肉ハエを素手で捕まえるシーン。
ビングリー家へ向かう途中、ゾンビと遭遇したジェインは戦いの末ゾンビを負かすが、熱を出してビングリー家で倒れてしまう。ジェインのゾンビ感染を疑うダーシーは、こっそりと、ゾンビを見分ける能力を持つ死肉ハエを放つ。見舞いに来たエリザベスは、姉の身を心配しながらも、空中で素早くハエをキャッチ。見ることもなく、つまり音だけでハエを追って、一発でしとめる。全部取った後、握りつぶしてダーシーに返す。って何このシーン、書いてておかしいわ。
エリザベスはダーシーがハエを放つシーンを見ていないから、気配で感じたんだろうね。こういうとこにも、ダーシーは惚れちゃったんだろうね。もちろん私もね。

ダーシーはついにエリザベスにプロポーズ。からの、闘いのシーンもおもしろかった。何故この場面で闘う。でも、エリザベスはダーシーのベストを割き、ダーシーもエリザベスの胸元を切る、というシーンで納得。2人は闘うことで気持ちを確かめあっているのだ。文字通り胸襟を開いて。
プロポーズが失敗に終わった後、ダーシーは日本刀で植木に切りかかる。エリザベスもコリンズからの求婚後、むしゃくしゃした気持ちを剣を振り回すことで解消している。この二人、似た者同士ですね。
ちなみに、金持ちのダーシーやビングリーとその妹たちは日本で修業し、そこまででもないベネット家は中国で修業したという設定。細かいけど、身分の差を表していて面白い。

笑えるシーンやとんでもなシーン見ても、2人の恋愛に結び付けてしまうほど、物語に入りこめたのは、小説「高慢と偏見」と、組み合わせた舞台の世界観が同じ熱量で描かれていたからだと思う。ただの設定に陥ってなくて、きちんと物語の中に組み込まれているのがよかった。
感想の中で、ダーシーがエリザベスに墜ちる瞬間、私も墜ちてると書いてるが、これは、エリザベスに墜ちるのはもちろん、それ以上に作品に墜ちているということです。

そして、物語はクライマックスへ。コリンズと結婚すると言いだしたエリザベスの妹は、ウィカムにそそのかされ、ゾンビの集う教会へと連れ去られてしまう。
ウィカムについては、割愛。
妹を助けに向かうエリザベスとジェイン。ゾンビのいる地域へかかる橋は、時間になったら爆破されることになっており、時間はない。その途中、ゾンビに襲われているダーシーをエリザベスが助け、最初に書いた二人で地面から湧き出るゾンビを刺すシーンが出てくる。
ダメ押しで、ゾンビ化したウィカムに襲われ、ダーシーあわやという時、表れるのは白馬に乗ったエリザベス。なんだよ、王子かよ。
妹も無事で、エリザベス&ダーシー、ビングリー&ジェインの結婚式でラストと、思ったら、エンドロール途中で切れて、ゾンビが向かってくる。この、ラストもらしくて好きだった。

ハドソン川の奇跡、なんかじゃない

少し前、ツイッターで「女性映画が日本に来るとこうなる」というハッシュタグが話題になった。女性の自立や強さ、女性を取り巻く厳しい社会をテーマにしている作品が、恋愛や癒し、母性を前面に押し出したポスターやキャッチコピーにされている。
日本が女性から何を奪おうとして、どういう枠にはめようとしているかが分かりやすく可視化されていた。それに腹も立つけど、何より、このせいでどれだけ自分好みの作品を見逃していたんだと思うと、ほんと腹が立った。
この映画は女性映画というカテゴリーではないのだけど、見ながら邦題あってなくないかと思い、「女性映画が日本に来るとこうなる」を思いだしたのだ。これは、奇跡なんかじゃない。

原題は「Sully」。主人公の愛称。タイトル通り主人公の目線で物語は進んでいく。彼の知らないことは画面にほぼ映らない。これは彼の物語。
まず、奇跡なんかじゃないと強く思ったのは、彼の葛藤だ。
物語は飛行機がニューヨークの街中に突っ込むシーンではじまる。次に目を覚ますサリ―。冒頭の映像はサリーの夢なのだ。この時にはすでにハドソン川への不時着水後。
また、サリーはニュースキャスターに「あなたは自分のことを英雄だと思っているのか」と聞かれる夢を見たり、バーのテレビで自分が映るニュースを見ているとき、サリーに気がついている他の客の「機長が二人いる」という言葉に、本当の自分はどっちなのか見失うようなシーンがある。
彼は自分の判断が本当に正しかったのか、他に選べる道はなかったのかという葛藤を抱えているのだ。

もうひとつの理由は、彼の職責の強さ。
不時着水後の機内を最後まで取り残されている人がいないか確認する。生存者の数を自分で確認しようとする。副機長に指摘されるまで、濡れた制服を着続けていることにも気がつかない。
最大の見せ場は、公聴会だと思う。
そこで披露されたシュミレーションでは、空港に引き返して無事着陸して終わる。それにサリーは異を唱える。エンジン停止後、シュミレーターはすぐに空港に引き返すという判断を下す。しかし、実際、そこには判断するための手段と時間が存在するはずだと。その時間13秒を待って、再び空港に引き返すシュミレーションを行うと、飛行機は着陸できないという結果が出る。
しかも、サリーは事前に公聴会でシュミレーションを公開するよう自ら要請しているのだ。
これが、本当にすごいと思った。物語の中でも緊張感の増す見せ場で、当事者であるサリーの緊張や不安なんかそりゃ、そうとうなものだろう。そんな中でも、彼は冷静だ。パイロットという仕事、役割への理解の高さが感じられる。
サリーが、事故調査委員会が「墜落」って表現するのを、一回一回「不時着水」って訂正するのもよかったな。こういうシーンの積み重ねって大事。


あと、キャッチコピー「155人の命を救い、容疑者になった男」にも違和感。私は、現実の事故自体は知っていたけど、その後を知らなかったから、映画を見る前は、サリーが訴えられたのかと思っていた。

映画の中で、サリーも事故調査委員会も原因を究明しようとしていて、誰も彼を裁こうとはしていない。サリーも責任を逃れようなんて考えもない。ただ、どういった判断を積み重ねて不時着水という選択をしたのかを説明していく。その姿勢が本当に素晴らしかった。

調べてみたら、「ハドソン川に奇跡」と言ったのは、ニューヨーク州知事だったのね。実際に使われた言葉だけど、映画の中に描かれたのは、やっぱり奇跡なんかじゃないと思うのよ。
奇跡って、いいことだけど、この映画で使ったら、サリーが積み重ねてきたものとかが否定されてしまうように感じるの。

この物語は、彼を奇跡を起こした英雄にはしない。一人の人間として描く。だから、原題がふさわしいと思った。