クリード チャンプを継ぐ者
勝敗は関係なく、リングに上がり続けることが大切だというロッキーシリーズのメッセージは受け継ぎつつ、リングから降りたロッキーも優しく描き切った作品だった。
ロッキーシリーズを1本も見たことがなかったので、見てから行くか、秋に診てしまうか迷っていたところ、趣味の合う友人から1作目のロッキーとファイナルがおすすめと聞き、2作品見てから鑑賞。この作品自体は過去作を見ていなくても楽しめるように作られていますが、見ていってよかったと思いました。それは、フィラデルフィアの街並みを時間の経過と共に見られるからです。ロッキー自身とフィラデルフィアの様子はリンクして描かれているように思いました。
1作目のロッキーでは、フィラデルフィアは雑然とした貧しい地域のように見えました。治安もあまりよくはなさそう。そして、ロッキーは世界王者のアポロと戦います。今から抜け出そうという力強さを感じる作品でした。
ファイナルでは、寂れています。エイドリアンの働いていたペットショップは潰れ、デートをしたスケートリンクは跡かたもありません。マリーの家の隣はボロボロです。全盛期からは遠のいたロッキーの姿と重なります。そんな境遇に甘んじることなく、年齢を言い訳にすることなく、ロッキーは戦います。
冒頭に書いた、リングに上がり続けることの大切さを強く描いた作品です。
そして、今作クリード。フィラデルフィアは小ざっぱりとしています。荒れた雰囲気もなく、現代の街並みです。そこにやってくるドニー。ロスからきたお坊ちゃんと揶揄されて迎い入れられますが、その彼が、フィラデルフィアに居場所を作っていきます。
彼の人物造形も現代的だと感じました。ビアンカがボクシングはもっと不良がやるものでしょというニュアンスのセリフを言います。ドニーはたぶん大学も出て、証券会社で昇進もし、将来を期待された優秀なビジネスマンです。養母メアリーアンに大切に育てられてきたことがうかがえます。
それでも彼の中で消化しきれない、父親への葛藤。会社を辞め、プロボクサーを目指すと決めた夜、彼はユーチューブで父アポロと、ロッキーの試合を見ます。しばらく眺めていた後、画面の前に立ち、映像に合わせてパンチを繰り出します。見なくても次にどんなパンチがくるか、どう動くかが体に染みついているんです。何度も何度も見たのでしょう。このシーンは、辛かった。なぜなら、彼が映像に合わせてパンチを打つ相手が、父アポロだからです。ドニーはロッキーと同じ動きをして、父親を打っているのです。
ドニーはプロになるため、ロッキーに指導してほしいと頼みに行きます。フィラデルフィアで、ロッキーは、レストランを経営し、エイドリアンとポーリーの墓に話しかけるのを日課にして生活しています。ジムには顔を出しておらず、ボクシングからは距離を置いているようです。現代的なフィラデルフィアに取り残されているように感じました。
そこに現れるかつてのライバル、アポロの息子。申出を断るロッキーでしたが、引き受けてからの様子がよかった。とにかく楽しそうなんです。朝練に向かうのに、ドニーが起きたときには準備万端で、ウキウキしながら音楽をかけてステップを踏んでいます。ドニーの隣でパンチングボールをニコニコしながら打っています。ロッキーはやっぱりボクシングが好きなんだなと改めて感じるいいシーンです。
ドニーは素直にロッキーの指導を受入、メキメキ成長していきます。でも、父親がアポロだということはどうしても口にすることができません。ジムのオーナーの息子との試合の直前、それがばれそうになりますが、ロッキーが止めます。彼に父親の名前を背負わせないでやってくれと頼むセリフに、かつて父の名前の重さに悩んだロッキーの息子、ロバートを思い出しました。
試合に勝った翌日、ドニーの出自がスクープされます。かつての世界王者の愛人の息子、トレーナーはそのライバルだったロッキーとくれば、世間が放っておきません。問題を起こして引退寸前の世界王者コンランから試合の申出があります。ドニーの実力ではなく、話題性に飛びついてのことでした。条件として、父親の名前で出ることが求められます。ためらうドニー。父親の名を背負い、負けてしまうことを恐れるドニーに、ビアンカは関係ない、勝っても負けてのドニーはドニーだと励まします。
タイトルマッチに向けて特訓を重ねるドニーの周りには、彼を支えるチームがあります。ロスからきたお坊ちゃんと笑われていた時から、彼は自分の居場所をこの街に作り上げたのです。そして、試合の直前、同じくらい大きな支えが届きます。息子に父親と同じ道を歩んでほしくないとプロになることを反対していたメアリーアンからです。赤と白のストライプ。クリードと刻まれたボクサーパンツを身につけて、ドニーはリンクへ向かいます。
激しい打ち合いの試合で、ドニーはKO寸前。リングに倒れ込んでしまいます。その時、走馬灯のように記憶が蘇ります。メアリーアンと初めて会っとき、ロッキーやビアンカ。そして、父アポロの姿。その瞬間、ドニーは意識を取り戻し、立ち上がります。もう、涙が止まりませんでした。映像に合わせて父を打っていた時、ドニーにとって父親は倒すべき存在でした。それが、励まし、応援してくれる存在に変わったのです。
判定でドニーは負けます。でも、判定を聞かないうちに彼らはリングを降ります。勝ちも負けも関係ない、力の限り闘うことが大切だというロッキーシリーズの力強いメッセージです。
ただ、今作では、もうひとつのメッセージが描かれています。それは、リングを降りたロッキーに対するものです。
時間はタイトルマッチの前に遡ります。練習中に、ロッキーはリングの上で倒れてしまいます。診断の結果は、癌。初期段階だから化学治療で治るという医師に対し、かつて同じ病気で苦しんだエイドリアンを思い、治療を拒否するロッキー。生きてほしいというドニーの気持ちに応え、治療を受け入れるロッキー。でも、ロッキーはもうリングに立つことはできません。それを象徴するシーンとして、リング上で倒れたロッキーをドニーが起こし、「リングを降りるよ」という場面があります。
1作目では、ロッキーは自分自身もリングに立つことを望み、周りもそれを期待しました。
ファイナルでは、ロッキー自身にリングに立ちたいという気持ちはありましたが、周りは反対しました。
これからは、ロッキー自身も、周りも望まないでしょう。それでも当たり前ですがロッキーの人生は続きます。
ラスト、いつも訓練で駆け上がっていた階段を、ドニーに支えられてようやく登り切ります。そこからの眺めは、かつてのフィラデルフィアとは変わっています。1作目で大通公園のような緑の帯が見えた風景が、ビル群に変わっています。物語の始まり、現代的になったフィラデルフィアに取り残されたように見えたロッキーでしたが、この場面のビル群はロッキーのこともドニーのことも包み込んでいるように見えました。
これから成長していくドニーのことも、リングに上がることはないロッキーのことも、同じように受け入れているように感じたのです。これが、今作に感じたもう一つのメッセージです。
人は誰でも、いつかリングから降りるときが来ます。年齢的なことかもしれないし、年齢とは関係なく自ら望むことかもしれないし、望まなくても否応なしにそうなることもあるかもしれません。リングに上がれなくなったロッキーに価値はあるのか??もちろんある。いや、価値なんてどうでもいいのかもしれない。自らが選んだ人生を、否応なしに選ばされた人生を、引き受けて生きていくこと。その大切さが描かれていました。
でも、それは違うリンクで生ていくこととも言えます。書いていて気が付きました。ロッキーシリーズのメッセージは、一貫されていました。
ぼくらの家路
この邦題、好きじゃない。ジャックの苦しんだこととか、傷ついた気持ちとか、そういうのなかったことになってる気がする。
目を覚ましたジャックは、弟を起こし、食事の用意をして食べさせてやる。母親の姿はない。自分は食パンをかじりながら学校へ向かう。多分、毎朝繰り返されている光景だろう。
しっかりしているジャックが、わざと我儘を言う場面が出てくる。
母親と彼氏がベッドにいる部屋に、分かっていて、お腹が空いたと入っていく。母親は怒るでも驚くでもなく(彼氏は驚いて憤るが)、裸のままキッチンへ行き、食べるものを出してやり、食べるジャックを見守る。
翌朝、母と弟と遊んでいると、彼氏が混ざってくる。それまで楽しんでいたジャックは冷めた目で彼の洋服や靴を窓から投げ捨てる。ここでも母親は怒らない。怒る彼氏からジャックをかばう。そして、怒って出ていった彼を追いかけていく。
戻ってきた母親は不機嫌で大きな音を出して皿を洗い始める。ジャックは様子を窺うように飲みかけのコップを持って母親の側に行く。
母親は仲直りの印とばかりに、ココアを入れてやる。嬉しそうに飲むジャックと、見守る母親。
母親がジャックに怒らないのは、甘えだと思った。
この、ジャックが彼氏を怒らせるようなことをする、母親が困る、ジャックが機嫌を窺う、母親はジャックを許すという一連の行為は、何度も繰り返されているような気がする。
これによって母親は母親でいられて、ジャックは子供でいられると確認し合っているように思うのだ。
ジャックは、それしか方法を知らないのだ。母親はこの方法に甘えているのだ。
ジャックがこの連鎖を断ち切ったのが、母親の「短い間よ」の一言。
短い間とは、母親と連絡がつかなかった3日間のこと。ジャックはこの間に弟を守るために知恵を働かせ、怖い目にもあい、不安で、心細くて、辛かったと思う。ジャックが強くあろうとすればするほど、見ていて辛かった。
母親の元カレらしきレンタカー会社に勤める男性の元でも、ジャックはマヌエルのように安心して寝ることもなく仕事をする。ジャックが安心して子供になれる時間なんて、この3日間一度もなかったのだ。
母親はそれに思い至ることもない。
子供になれる時間って書いたけど、残酷な表現だと思った。子どもで「いられる時間」じゃなくて、「なれる時間」。マヌエルのように寝られる時間があって当然なのに、ジャックにはそれがない。
このまま母親と一緒にいたらダメだと直感したとき、ジャックの表情が、一瞬強張ったように見えた。
靴紐が結べるようになったよと母親に見せるマヌエルと、それを褒める母親。ジャックはそこに交わらず、一人で食事を続ける。苛立っているように見える。ジャックは感情を表すことがほとんどない。辛すぎる全編で涙するのは一度だけ。代わりに自分がどれだけ泣いたか。
この3日間のことは母親に言っても分かってもらえない。絶対言わないとばかりに、母親に残したメッセージが書かれた紙を握りつぶすジャック。
翌日、母親を起こさないようにマヌエルを連れて家を出る。行き先は予想がつく。絶対当ってる。だから辛い。だって、それは大人のすることだ。
この映画には大人が2人しか出てこない。施設の先生と、レンタカー会社の元カレだ。母親の勤め先や友人たちはあまりにも無関心だ。
先生は施設からいなくなったジャックを連れ戻しに家まで来る。
元カレは警察に連れて行こうとする。ジャックは拒み逃げるが、警察に行ったら、施設に戻されることは間違いない。
施設に戻させるという選択をするのは大人の役割だ。それをジャック本人に、弟の手まで引かせてさせるのは、すごく酷だ。
インターホンに「ジャックです」と名乗って物語は終わる。原題は「JACK」。このタイトルがぴったりだと思う。ほんわかした邦題も、「子供が大人になる切なくも希望に満ちた瞬間を切り取った感動の物語」ってコピーも気に入らない。
ジャックは大人になったんじゃなくて、ならざるを得なかったんだよ。いつかは誰だって大人になる。でも、それを急がないといけなかったジャックを見て、私は辛かった。もっと子供でいさせてあげたかった。それが許されない環境だったんだよ。希望になんて満ちてない。少なくとも、ジャックの胸の内に希望なんてなかったと思う。それでもそう決断せざるを得なかったジャックが、少しずつでも安心して寝られるようになればいいなって、そう願った。その積み重ねの先に、ジャック自身が希望を見出せたらいいなと思った。
マジック・マイクXXL
テルミーワイにのせて踊るリッチーには、笑った。楽しんだ。彼らの肉体に、美しいなぁと見とれた。
でも、ローマの会員制のクラブで行われている、お札が飛び交い、見世物のように男性と女性が絡み合う場面は、正直戸惑った。
どう見ていいのか分からないのだ。恥ずかしさと嫌悪感と好奇心と罪悪感と、様々混じり合って、笑えないし、楽しめない。どう見るかなんて、自分で決めることなのに、それができない。
複雑な気持ちのまま見ていると、離婚で傷ついた心を癒したいから、ここに来たという女性が登場する。男性は彼女のために君はスペシャルだと歌う。
傷ついた心を癒しに来た彼女と、それを引き受けてくれる男性。
ここは、そういう場所なんだと思ったら、私は楽しめると思った。
でも、まだ晴れないモヤモヤがあった。それは、傷をいやすという条件がないと来たらいけないのか?純粋に楽しみたいでもいいじゃないか、という思いだった。
「傷をいやす」という条件を勝手に設けているのは自分。自分の欲望を受け入れるのに、「傷をいやす」という条件を設けないと受け入れられないことに気がついたのだ。
そう思ったら、純粋に楽しみたいって気持ちで訪れることもありだと、理解できた。
なぜ条件を設けなければいけなかったのかといえば、女性は自らの性欲をあらわにするべきではない、それをするのははしたないことだ、に縛られていたからだ。その結果、自分の欲望なのに、自分でそれが分からなくなっていた。特別な条件、つまり言い訳がないと楽しめない。だから、純粋に楽しみたいという思いだけでくることに、当初拒否反応を示していたのではないか。
楽しんでしまえばいいのだ。彼らはそれを引き受けてくれるプロだ。見に来ている人が楽しめるように、いい気分になって帰れるようにパフォーマンスを考え、体を鍛え、ダンスに磨きをかける。
ステージシーンはローマのMCが最高。煽り方にも品があって、ダンサーに対する敬意も忘れない。
観客の女性たちもいい。照れて、恥ずかしがりながらも、ニヤニヤが止まらない。まさに見ている自分の姿。
観客たち見てたら、女友達数人で笑って、騒いでみたいなと思った。条件がないと自分の欲望を受け入れられないと気がついたのは、見終わった後だから、ステージシーンのパフォーマンスは、ちょっとまだ楽しむことに罪悪感を持ったままだった。それでも十分楽しかったけど、きっと今ならもっと楽しめる。
チョコリエッタ
チョコリエッタから知世子を解放する物語、だと思う。そう説明していたし。
幼い頃、父の運転する車で事故に遭い、母親を亡くした知世子。犬のジュリエッタだけが心の支えだったが、10年後、そのジュリエッタも死んでしまう。悲しみにくれた知世子は、「犬になりたい」と進路調査票に書く。
知世子は大人になりたくないのだ。だから少年のように髪を短く切って、自分の進路を真剣に考えない。チョコリエッタと母親が呼んだ名前でいれば、母親の思い出に浸って生きていけると信じているよう。
ただ、なぜ知世子は母親が亡くなって10年も立ち直れなかったのか、なぜ心の支えがジュリエッタだけだったのか、なぜ犬になりたいのか、分からない。
大切な人を亡くして悲しいから、なのは当然分かる。でも、その分かるは、知っているであって、物語の中での知世子の悲しさが分からない。それを映画の中で感じさせてほしい。共感させてほしいということではない。知世子にとっての解放が何を意味するのか、映画の中で描いてほしいのだ。
正宗は爺様の呪いにかけられてると、知世子は言う。両親の離婚で傷ついた正宗をバイクで連れ出して色々な景色を見せてくれた。映画という楽しみも教えてくれた。いい爺様だと思うのだけど、どこが呪い?
正宗は、悩んでいる様子もないのに、海で「うんこまみれの世の中には流されない」といきなり叫び出す。お気楽そうに見えたけど、そう見えても誰にだって悩みはあるよね、というのは分かる。でも、これもやっぱり知っているなのだ。
正宗も何かに縛られていたのだろうかと想像してみる。爺様の呪い、浪人、潰れた爺様の病院。本当は医者になりたくないけど、爺様の病院を立て直すために医大を受験するとか、病院再開したいけど、医大に入る実力がなくて苦しんでいるとか思いつく。でも、悩んでいる描写がないから、正宗が何に縛られ、解放された状態が何を指すのかが結局わからないままだった。
知世子がなぜ母親の死から長いこと立ち直れなかったか考えた。映画ではそうとは描かれていないけど、父親ではないか。
事故後、病院のベットで目を覚ました知世子に、霧湖が「お父さんは隣の部屋で寝ているよ」と言うので、父親は生きていることが分かる。16歳になった知世子の物語が始まるが父親が出てこない。なかなか出てこないので、父親も死んだのかと思った。
ようやく出てきた父親は、夜テレビをつけっぱなしにしたままソファで寝ている。毛布をかけてやろうとして、知世子の手が止まる。バサッと投げるようにかける。もしかして、知世子は父親のせいで母親が死んだと思っているのかと思った。でも違うのだろう。父親はこっれきり出てこない。
そして、この後の父親の台詞が怖い。「そろそろ霧湖を解放してやれよ」
霧湖は父親の妹で、事故後、一緒に住んでいる様子だ。10年ぶりに彼氏ができて、旅行に行くという話を聞いて、知世子は不機嫌になる。家はきれいに片付いている。霧湖の彼氏は「知世子ちゃんが高校卒業するのを待って結婚しようと思っている」と言う。霧湖は文句を言うが、彼氏がその言葉を知世子に言ったことに対しての文句であって、台詞の内容にではない。怖い、怖すぎる。
父親は、母親の死後、親の役目を放棄し、家事や知世子の世話を霧湖にさせていたんじゃないかと思った。
何よりも霧湖の解放を私は望むよ。
「合葬」の悌二郎役の岡山天音さんが出てると知って楽しみだったんだけど、先輩役で「私たちのハァハァ」の文子役、三浦透子さんも出ていた。お二人同時に見れて、得した気分。
私たちのハァハァ
初めてのバイト代は、当時大ファンだったバレーボール選手を見に行くためのチケット代と交通費に消えた。選手と交流できる懇親会もあった。参加費が5000円だった。今なら迷わず出せる5000円が、当時高校生だった自分には、一緒に行った友達とどうするか数日迷うくらいの大金だった。そんなことを久しぶりに思い出した。
彼女たちにはお金がない。その徹底した書き方が面白かった。
いよいよ切羽詰まった時、一ノ瀬が実はバイト代があると、気まずそうに打ち明ける。
学生時代は「お金がない」の大合唱だった。それで繋がりを保っていた側面もある。だから、一ノ瀬がずっと言えなかったこと、言うときの気まずそうなところがリアルだった。
好きなバンドのライブのために、北九州から東京まで自転車で行く、という笑っちゃうくらいのバカさの中に織り込まれる現実的な描写がいい。
周りはなんとなくでも進路が決まっていることに焦りを覚えるチエ。
見た目の評価を突き付けられる現実。それに対して血液型Bって答えればよかったなと努めて明るく振る舞うさっつんと、受け入れられず必要以上に卑屈になる文子。
車に乗せてくれた中年の男性には「長時間の運転大変ですね」って気を使えるのに、年齢が近い佐々木には遠慮がない4人。
もうどうしようもないってなった時にケンカをする文子とチエ。チエが勢い余って「本当はクリープハイプのことそんなに好きじゃなかった」と言わなくてもいいことを言ってしまう。思い出したのは、カラオケでクリープハイプを歌って盛り上がる4人。
まさか本当に自転車で行くとは思っていなかったチエは、漕ぐのが大変な車輪の小さい自転車で来る。
三奈子の部屋でDVDを見ながら、こんなに好きなのに実際に会って思ってたのと違ってたらどうしようと、いらぬ心配をするほどのめり込んでいる文子。
互いの熱量の違いは書かれて、お互いそれに気がついていたはず。それでも、好きって思う熱量が違っても一緒には楽しめる。それまで築いてきた関係と、違うなりにも思いを共有してきた時間があるから、また4人でライブ会場を目指すのだ。
ステージに上がってしまった4人に、三奈子が怒りをあらわにするシーンがある。
ファンを描いた映画だという監督がインタビューで言っていた。クリープハイプのファンなのは4人だけじゃないって言ってくれているようで、安心した。彼女たちの行動を、ファンだからこそ快く思わないという、このシーンが好きだ。何かや誰かのファンになったことがある人なら絶対共感するシーンだと思う。
お金がないのは、本当に徹底されていて、会場まで行く電車代がないのだから、当然北九州まで帰るお金はない。結局親を頼らざるを得ないという描写が誠実だなと思った。
大好きだったバレーボール選手は、怪我でこなかった。バイト代つぎ込んだのに、悩んで悩んで懇親会費も振り込んだのに、会えなかった。何しに行ったんだろうと思った。
自分の高校時代を、そんなにいいもんじゃなかったけど、でも、そこもひっくるめていいもんだったんだなと、懐かしく思い返した青春映画だった。
合葬 原作を読んで
私は、本は本、映画は映画と、それぞれ独立したものとして捉えたいので、比較したりはなるべくしないようにしてるんだけど、今回、原作を読んで気がついたことがある。
原作で、森が斬られたことで死を意識したのか、母親に会いに行ったと語る隊士がいる。気丈な人だったのに泣かれた、会いに行くんじゃなかったと続けて語るのを読んで、映画のラスト、砂世の泣いた顔が浮かんだ。
マンガの中で語られた母親も、映画の中で泣く砂世も、一人の隊士の母親、悌二郎の妹で極の婚約者だった砂世以上の存在として描かれているのではないかと思った。
それは、戦争で子供を失った、大切な人を失った多くの母親、女性たちだと思う。決して物語の中に登場しない、多くの女性たちの悲しみが、ここに描かれているのだ。
合葬 ※ネタバレあり
「150年前のこの国の若者たちの日々が、あなたの知る青春そのものであるように見えたなら、それこそはこの映画の本懐だと思う。」
パンフレットに掲載されている、この映画の脚本家・渡辺あやさんの言葉だ。
そう感じる瞬間が、いくつもあった。
想いを寄せるかなが、極のことを好きだと知った柾之助の嫉妬。
薩摩を討つと息巻くも階段から転げ落ち気を失う極。目が覚めた時に側にいた柾之助とかなに、無様だろう、笑えと背を向ける自意識の強さ。
稽古で極に勝った途端、得意気に自論を展開する悌二郎の極への対抗心。その悌二郎が彰義隊を一度抜け実家に戻ったとき、兄に説教されて泣く幼さ。
極の、言葉通りの「邪魔だ、どけ」を、自分を心配する「危ない」に転換してしまうかなの恋心。
彰義隊の見回りを楽しみに待つ料理屋の娘たち。
深川からの朝帰りの隊士たち。
遠い時代に生きていた彼らも、同じように悲しみ、嫉妬し、憤り、のぼせて生きていたのだと感じる瞬間が愛おしかった。
なぜ、悌二郎は一度は去った彰義隊に戻り戦争に参加したのが、分からなかった。今もよくわからない。ただ、「武士という価値観」が彼をそうさせたのだろうと思った。そう感じた理由は、極の存在だ。
幕府がなくなった今、彰義隊は無用の長物と言い切った悌二郎が、彰義隊に入ったのは、森に傾倒したからだ。新政府軍を倒し幕府を再建するという強硬派を抑えるのには、悌二郎のような論客が必要だと森は説く。その夜、森の心配が的中し、料理屋に居合わせた薩摩藩士を隊士が切り殺してしまう事態が起こる。止められなかったと悔やむ森の背中を見つめる悌二郎の姿に、上様をお見送りする極の姿が重なった。
極は、江戸城を去る将軍徳川慶喜の姿をお見送りしたことで、上様への忠誠心を強くし、命を捧げることが本懐だと思うようになる。そして、極は自ら腹を切って死んだ。武士として死んだのだ。
武士という価値観が、悌二郎を彰義隊へ引き戻したのかなと、考えた。
少し話はそれて、この極の切腹が「無様」なんだ。よく物語で見られる切腹って、キレイなんだけど、極のはかっこ悪いし痛々しい。多分、本人ももっとかっこよく死ぬつもりだったんだろうけど、「かっこいい死にざま」って胡散臭い。
幕末は時代の変わり目だと言われる。時代の変わり目とは、一言でいえば価値観がひっくり返るときだと思う。武士という価値観によって亡くなった極と悌二郎。柾之助は、その価値観を持ち合わせていないように描かれていた。養父が亡くなり、養母に仇討を迫られるも、やる気がなく、養母が体よく自分を追い出そうとしているのが分かり、仕方なく家を出る。彰義隊に入ったのも、行くところがなかったタイミングで極に誘われたから。志に燃える極や隊士たちと違い、自分の恋に一喜一憂する。そして、その柾之助だけが生き残る。
冒頭、柾之助は、「何か」を踏む。得体のしれない、腐った「何か」の正体は、武士という価値観、古い価値観を表しているように思った。
写真館へ向かう途中、極と悌之助が水たまりを気にすることなく歩くのに対して、征之助だけが避けて通るシーンがアップで映る。
柾之助の草履の裏にはまだ、洗い流せない「何か」の血が残っているのではないか。「何か」を踏みつけて、時代は変わっていった。
極を弔った後、極が持っていた一枚の写真を柾之助は手にする。物語のはじめに3人で撮ったものだ。
写真館の主人の言葉が蘇る。
悪天候ゆえ、少々時を要します。固まってレンズを見つめる3人に言う、「まだまだ、まだまだ」
極と悌二郎は、武士として死ねて本望だったのだろうか。柾之助はどんな思いで写真を見ていたんだろう。
「まだまだ、まだまだ」が妙に頭に残る。時代の流れに飲み込まれていこうとする若者に、そんなに逸るんじゃない、と語りかけるような優しさが感じられるのだけど、その声は届かなかった。
ここで、終わりかなと思ったら、映画には続きがある。
極の許嫁で、悌二郎の妹・砂世が語り出す。
「私は罪深い人間でございます」
自殺しようとしていた砂世に、夫の尾関が、何があったか話してみろ、というと、こう切りだした。
極のことを思っていた砂世は、婚約解消を悲しみ、戦争が始まる直前、兄・悌二郎に最後に一目極に会いたいと頼む。その願いをかなえようと極の元を訪れた時、戦争がはじまり、悌二郎はそのまま戦争に参加、死んでしまう。自分の「嘘」で兄が死んだことで、砂世は自殺を図ろうとしたのだ。
砂世の語りを、物語に挿入された、隊士たちの怪談のように、初めは聞いていた。怪談は作り話だ。人から聞いた話だ。
ある満月の夜のこと、ふと目を覚ますと極の姿があった。「これは夢なのでございましょうか」と驚く砂世に、極は「満月と笛の音に誘われたのだ」と言う。
満月の夜に笛を吹いていたのは、森だ。戦争が避けられない状況の中で、何とか強硬派の隊士たちも助けようと幹部に直談判するも、それは隊の関知するところではないと相手にしてもらえない。笛の音色は悲しく聞こえた。森の悲しみを、極の感じたのだろうか。その悲しさが、砂世の元へ足を運ばせたのだろうか。
興味深いのは、同じ音色を聞いていた悌二郎が、「誰だ、こんな夜中に」と舌打ちして迷惑そうにしている様子。当たり前といえば当たり前だけど、人ってどんなに思っていても、全部が全部分かるわけないんだなと思った。極は、森このこと蔑んでみていたのに、その音色に心動かされてしまうんだもの。
閑話休題。
砂世の話で思い出したのは、極の語った怪談だ。これだけが、自分の身に起きたことだった。
上様が夢枕に立った。生きている上様が夢枕に立ったのは、自分の想いが強かったからだと極は言う。目を開けると、上様がいた場所に刀が突き刺さっている。「この命、上様に捧げ奉る」と、その刀で腹を切る極が映し出される。
刀は男性性の象徴とも取れる。砂世は、極の子を腹に宿していたのではないかというのは、深読みのしすぎだろうか。