ネタバレなしでは語れない

映画大好き。感想はネタバレしないと語れないので、思いっきり結末にふれています。

幸せな貝

先日「幸せなひとりぼっち」という映画を見た。

長年連れ添った妻のソーニャに先立たれたオーヴェは、町内会を見回っては厳しく注意するため、厄介者扱いされていた。長年勤めた会社も首になったオーヴェは自殺をしようとする、と、車通行止めの敷地に入ってくる車を見つけ、思わず注意にいってしまう。向かいに引っ越してきたパルヴァネ一家だった。ぶつぶつ文句を言いながらも運転下手な夫に代わって駐車を手伝うオーヴェ。自殺の出鼻をくじかれる。

その次もその次も、自殺しようとする度、何かと邪魔?が入り、達成できない。そんな様子がコミカルに描かれる。

神様が今じゃないって、言ってるんだ。もうちょっと生きてみなさいって言ってるんだ。と思った。こういう都合のいい考え方、好き。自分でもよく採用する。

 

年始一発目のライブで、声が出なくなった吉井さん。順調に回復してると、ファンクラブのメッセージを通じて知らせてくれた。一安心。しばらくは貝になるとのこと。

これも、ちょっと頑張りすぎたから、ちょっと休みなさいって、メッセージなんだ、と思って、ゆっくり休んでほしいな。

必要以上に反省しないで、自分を責めすぎることなく。

 

パルヴァネは、遠慮することなくオーヴェや周りの人に頼る。そして、何のためらいもなく困っている人を助けようとする。彼女は移民で、妊娠中で、子供二人と、あまり頼りにならない夫を支えてきた。そんな背景もあってか、彼女は人を頼ることも助けることにも躊躇がない。当然のことのようにする。それにふれて、オーヴェの少しずつ心を開いていく。

 

当日ライブ会場にいたファンの人のツイッターで、エマちゃんが一旦ステージを降りるとき、「こんなこともあるよね」と言ったと、知った。優しい言葉だと思った。

吉井さんのブログでも、早いうちから吉井さんの喉の調子がよくないと察知したメンバーが、それをカバーしようとした様子がつづられていた。

感動もしたけど、まず、安心した。メンバー間で大変なことを共有できている、頼ったり、頼られたり、そんな関係が感じられて、安心した。

 

ゆっくり休んで、またステージに戻ってきてください。

 

今年も申年

2016年1月8日、ちょうど一年前の今日、THE YELLOW MONKEYが復活した。

同時に発表されたアリーナツアーで、ラストの真駒内2DAYSは絶対に行こうと決めたけど、他は、仕事の先の都合が見通せなかったので、この段階では見送ろうと思った。

友達にメールして、それでもまだ実感がわかなくて、いろいろ思ったけど、やっぱり嬉しかった。

解散したバンドが復活したってニュースに触れると、よく、「これが、THE YELLOW MONKEYだったらどう思うんだろう」って考えてた。確かに好きだったけど、それは、あの時の彼らで、あの時の自分だったからで。今さらと思うのか、もしそうだったら嫌だななと、答えのでないことを考えていた。それが現実になって、わかった。全部杞憂だった。

嬉しかった。

エンジンのかかりが遅いのはいつものことで、5月の代々木に行った友達の話を聞いたり、初日に中継を後からYouTubeで探して見たり、ライブの感想やレポをアップしているブログを見たりしているうちに、早くライブに行きたい!と、一般発売でチケット申し込んでもどこも取れず。それでもまだ本格的にかかっていなかったのか、その後発表されたホールツアーも、見送ってしまった。

待ちに待った9月。かっこよかった。エロかった。あの頃の彼らとも違うけど、変わっていない部分もあって、確実に変化した今のTHE YELLOW MONKEYのライブを見せてくれた。

今の彼らをかっこいいと思うことは、過去の彼らを否定することではない。その逆も然り。だってどっちとも圧倒的にかっこいいライブを見せてくれたんだもん。

4人とも現役で音楽活動を続けてきて、いろんな経験して、いろんな感情味わって、今の4人があるんだなと思った。

ようやくエンジン本格的にかかって、ホールツアーの一般発売申し込むもまた取れず。トレードに申し込んで唯一取れたのが長崎。

THE YELLOW MONKEYをホールで見るのは初めて。楽しかった!楽しかった!ちょう楽しかった!来年ホールツアーがあったら、絶対行けるとこと全部行く、遠征すると決めた。

年末にファンの人たちが、2016年の申年はTHE YELLOW MONKEYとともに駆け抜けた、文字通り申年だったってブログやTwitterに書いているのをみて、うらやましかった。ライブに参加した本数とか、遠征した回数とか、そういったこととは関係なく、そう言い切れない自分が悔しかった。ああすればよかった、こうすればよかった、そればっかり。

だから、今年も申年にしようと決めた。

そんな(個人的継続中の)申年1月1日、目が覚めて真っ先に飛び込んできたニュースが、吉井さん声が出なくなる、だった。心配した。ファンになるってこういうことだと思った。彼らの行動や言動に一喜一憂して、心が乱されることもある。いいよ、いいよ、望むところだよ。

ということで、映画ブログだけど、THE YELLOW MONKEYのことも書いていこうと、そう決めた。

ケンとカズ

職場の前でカズを待つケン。そこに来たケンが、カズの後ろからお尻を軽く蹴る。それを合図に歩きだす二人。会話はない。
あぁ、この距離感。
パチンコに行って、帰り道、ここでも会話もなく、2人のバックショット。
あぁ、この距離感。
別れるとき、何か言いたそうなカズの表情。子供のことが切り出せない。

この一連のシーンがすごく好き。冒頭の車の中の会話と、事務所でのカズがいないところでのテルや社長の口ぶりから、ケンとカズの関係が浮かび上がってきて、最初に書いたシーンに繋がる。シーンや会話を積み重ねて関係性を描く上手さに惹きつけられる。
この時、既にカズは、ケンの彼女、早紀が妊娠していること、そのことをケンが切り出せないことを知っていたのだろう。
なぜ自分だけに言いだせないのかも、ケンが子供をきっかけにこの仕事を辞めようとしていること、カズは全部わかっている。
「子供ができたからって、てめえの都合だけで辞めるじゃねえんだよ」
このセリフは、きつかった。どこかでカズを信じたい気持ちが、私の中にあったのだ。早紀と別れろ別れろと言っていたけど、子供ができたと知ったら祝ってくれると思っていた。たぶん、ケンもそうだったんじゃないか。
このことと、カズに認知症の母親がいることをケンが知ってしまったこと。
この2つをきっかけに、ケンとカズの関係が変わったように見えた。ケンがカズのお兄ちゃん的存在に見えていたし、周りもしっかり者のカズと言うこと聞かないケンって扱いで、ケンの面倒はカズが見てるって雰囲気だったけど、カズのケンに対するライバル心とか、優位に立ちたい気持ちとか、引き留めたいこと、もう引き返せない、これを選ぶしか道はないという悲しいまでの覚悟を感じて、対等になろうとするカズの姿が見えた。

ケンにとって、「父親」という存在はなんだったのだろう。
「あんたなんか父親になれるわけないじゃん」と早紀に言われた時、ケンは手をあげる。
一方的にカズに殴られていたとき、殴り返すのも、父親になんかなれないの言葉だった。
藤堂から、父親になるんだから、と言われると、嬉しそうにほほ笑む。
ケンは、人生を変えようと思っていたんだ。子供のことをきっかけに覚せい剤の世界から足を洗って、早紀と三人で生きようと思ってたんだ。
「子供ができたからって、てめえの都合だけで辞めるじゃねえんだよ」カズのセリフでつきつけられる厳しい現実。どうにかならなかったんだろうか、他に方法はなかったんだろうか。

裏社会とか覚せい剤の密売とか聞くと、薄暗い画面を想像する。
この作品の画面は明るい。日の光の中だ。それが一層厳しさを突き付ける。
日常と隣り合わせなのに、遠い。
国広を襲うのも、覚せい剤の取引しようとするのも、カズがさらわれるのも、日の光の下。藤堂の事務所も普通の部屋。カズが囚われる場所も事務所の一室とか倉庫じゃなくて橋の下だったり、どこにでもありそうな場所で行われることに、より一層絶望する。どこにでもある日常に溶け込んでいるからこそ、そこから抜け出すことのむずかしさを思う。
ケンのこともカズのことも、かわいそうとは思わない。自業自得とも思わない。ただ、違う人生を、望む人生を選ぶことはできなかったのか。そうさせてあげたかったと思った。

見終わった後、予告を初めて見て、カズがケンに「おまえがここ誘ってくれてよかったよ。一人じゃ今頃何しているか想像もつかねえ」って言うセリフが流れて、2人の関係を表してるセリフだなと思った。これを映像だけでも見せてくれたから、この作品好きなんだけど、欲を言えば、テルも含めた3人でバカ話とかしてるシーンをもっと見たかった。わちゃわちゃが足りない。そんなん見たら、もっと辛くなるのは分かってるんだけど、だって、カズはケンのこと大好きじゃない!?もう行動、セリフ、全身からカズが好きって叫んでた。ケンもカズのこと可愛いと思ってるじゃない!?手のかかるほっとけない弟みたいな。そんな2人の関係性を勝手に読み取ってしまったから、見たくなるのは仕方がない。

ブリジット・ジョーンズの日記

15年前は本も読んだし、映画も見た。今回の続編の公開は、今さら感が否めなかったんだけど、見てよかった。2016年版にアップデイトされている。
誰にも否定されない世界って、こんなにも心地がいいものなのか!!
とにかく泣きましたよ。
一人で行って、隣も女性一人、逆の横は女性2人組、前後も女性ばかり。鼻すすってる人もいっぱいいる。隣のおひとりの女性とは同じタイミングで、ずずってやったよね。あぁ、現実の世界で頑張ってるブリジットがこんなにいる。

まず、いいなと思ったのが、ブリジットが妊娠したことで自分を責めない。年齢とか父親のこととかキャリアのこととか、もう考えれば考えるだけ自分を責める要素があるんだけど、もちろん自己嫌悪に陥ることはあっても、彼女は必要以上に自分を責めないし、必要以上に反省もしない。そうだった、ここがブリジットの長所だった。立ち直りの早さは健在。
そして、周りも。妊娠したことを喜んでくれる。2人の父親候補も。
妊娠を女性一人の問題にしない。女性一人に背負わせない。相手と共に向き合っていくものとして描いている。
女友達描写も良かったんだけど、産婦人科の先生がよかったー
無痛分娩にするには遅すぎてそのまま生むことになったブリジットに、ジャックが「気持ちがあれば痛くない」的なことを連発するんだけど、先生の「子ども一人出すのに痛くないわけがない」みたいな言葉はスカッとした。

そして、マーク・ダーシーのかわいさかっこよさ。噂に聞いていた以上。
赤ちゃん教室で、ジャックとカップルと勘違いされたときと、過激なパフォーマンスグループの裁判に勝って、彼女たちがマークへの感謝を体で表現したときの、どう反応していいかわかんなくて、無表情になるマーク、かわいい。
ブリジットに妊娠したと告げられて、「失礼」と部屋の外に出るの、かわいい。どうやって喜んだのか知りたい。何事もなかったかのように戻ってくるのもいい。
ブリジットに陣痛がきたとき、マークに仕事の電話がかかってきて、仕事が忙しくてジャックより側にいてあげられることができなかったことを反省したうえに、たぶんてんぱったのだろう、携帯を窓から投げるマーク。なにやってんだよ笑!案の定、ブリジットから救急車はどうやって呼ぶのと突っ込まれる。
あと、これは、マークというより、演じているコリン・ファースの魅力全開な場面なんだけど、久々に再会して、ブリジットの待っているホテルの部屋に入ってくるマークが、うす暗い中たたずんでいるその姿が、とてつもなく色っぽい。

そして、ブリジットが一番欲しかった言葉、生まれてくるのが自分の子じゃなくても、その子のことも愛しているって、言ってくれる。
ジャックの嘘で、マークはお腹の子が自分の子じゃない可能性が高いことを知り、ブリジットの前から去る。そして、戻ってきたときには覚悟を決めてきたんだね。

出産がいいことばかりじゃないのは、それはそうなんだけど、それでも妊娠したブリジットを祝福し、誰も責めないこの世界は、見ていてとても励まされた。
妊娠だけじゃない、結婚しないこと、子供をもたないこと、女性を縛るたくさんの「こうでなければならない」から解き放たれた世界は、とても生きやすそうだった。

あと。サブタイトルはあまりにもひどいのでタイトルにいれませんでした。

何者

何者と永い言い訳。自意識過剰で、少し性格が悪くないと、響かない作品かもしれないとの感想を読んだ。両方とも響きました、えぐられました。

烏丸ギンジに向けた拓人の言葉「頑張ってるところを人に見せるのはまだ何者でもないから」は、拓人が頑張ってるところを、みっともないところを人に見せない理由だ。それは、まだ何者でもないことが周りにばれるのが怖いから、自分で認めるのが怖いから。

拓人と理香って似てるなと思いながら見てた。対極にいるのが、光太郎と瑞月。拓人は光太郎の内定先を小さいところだと影で笑い、梨花は瑞月のそれをブラックで検索をかける。拓人は人を見下すことで、理香は頑張ってることをアピールすることで、かろうじて自分を保っていた。やってることは逆でも同じ。誰かと比較しないと自分のプライドを保てない。
演劇関係は食べていけないから受けないと言いながらそこの面接を受ける拓人。名前のあるところより即戦力としてすぐ働けるとことがいいと言いながら大手を受ける理香。

拓人に向けた言葉じゃないけど、瑞月の「10点でも20点でもいいから出しなよ」は拓人にも響いたと思う。自意識過剰人間には、これが難しい。
でも、瑞月の言うように「出してみないと点数なんてつかない」のだ。出してみたら案外よかったということは少ないのだけど、出してみたらどう改善すればいいかがわかったということは、よくある。それの繰り返しで成長していくしかないのだけれど、そんなに頑張ってなんかいませんよって顔して内定が欲しいって、なんでなんだろうね。と思わず自問自答してしまうほど、拓人の中に自分を見てしまう。

理香に秘密にしていたツイッターのアカウントがばれて、どうせ裏で人のこと笑ってたんでしょと言われる。そこに隆良が帰ってくる。
隆良が就活をはじめようと思うから色々教えてほしいと拓人に頼んでくる。「二回目なんだから詳しいだろう」と。ここで拓人が就活浪人をしていたことが分かる。きっと、拓人が一番隠していたかったこと。
理香の部屋を出た拓人は瑞月のバイト先へ。そこで瑞月は、「拓人君の書く舞台好きだったよ」と言う。拓人が学生時代に頑張っていたこと。そして、多分一番みっともなかった姿。なぜみっともなかったかというと、やっている最中は人にどう思われるかを考えていなかったから。自分がやりたいからやる。それだけで動いていた時間。

理香と隆良にみっともない自分がばれて、瑞月にみっともない自分を肯定してもらった。他人に引きはがされたプライド。でも、そのむき身の自分を好きだといってもらえたことで、拓人は救われる。
何者に答えを出すには、必要な行程だったのかもしれない。

そうして迎えた面接。面接は140文字のツイートのようなもの。簡潔に相手に伝わるように。と言っていた拓人が、ラストの面接では自分を1分では表現できないという、人はもっと複雑なのだ。140文字に収めようとするがために、目を背けて、あえて表現しない部分が逆に露わになってくる。それに拓人は向き合い始めた。
先輩のツイッターの画面だけで分かった気になっているなよという言葉とも重なってくる。画面ではなく人と、画面ではなく自分と。

ラストは拓人が面接を受けた会社から出ていく場面のバックショット。出た途端、それまで聞こえていなかった雑踏の音が聞こえてくる。ぱぁっと画面が明るくなる。その中に踏み出していく拓人。予告で使われていたもので、そこで見たときは、「はじまり」を感じさせた。ラストで見ても同じ、ここからが拓人のはじまりなのだ。

THE BEATLES EIGHT DAYS A WEEK

私は、THE YELLOW MONKEYが好きだ。私は彼らをライブバンドだと思っている。メンバー4人がライブを楽しんで、盛り上がり、いい音が出せて、曲作りとか、レコーディングとか、プロモーションなど、色んなことが上手く回り始めると思っている。ライブを軸にしているバンドだと思っている。
そいうい意味で、ビートルズはスタジオバンドだったんだなと、この映画を見て思った。スタジオで4人で音を出し合って、グルーブを構築していく。その過程を楽しんで時間をかけるからこそ、ライブや他のことも上手く行く。メンバーもスタジオで音を作っているときが楽しいと言っていた。
でも、全世界を飛び回るワールドツアー、合間の映画撮影、メディアに追いかけられながらの生活の中で、じっくりと、メンバーでひざを突き合わせてスタジオでの時間を持てるはずがない。当時の熱狂は想像以上だった。

ビートルズのイメージというと、神格化された伝説のバンド。あとは、バンドのイメージというより、ジョンレノン。
でも、4人のバンドだった。ジョンがいて、ポールがいて、ジョージがいて、リンゴがいる。
出てくる写真、映像はとにかく4人の距離が近い。互いを信頼し合ってて、4人で音楽やってるのが本当に楽しそう。ソファーに座ってるときなんて、重なり合ってるよ、絶対。インタビュー受けてるとき他のメンバーがいたずらしたり、ベッドで騒いでたりと、とにかくかわいい。当たり前だけど、私が知ってるビートルズなんてほんの一部分で、しかも作り上げられたものだったんだと知った。生身のビートルズに触れた気がした。

一番印象に残ったのが、白人とそれ以外の席が分かれて行われるライブが当然だった時代に、それにNOを突き付けたこと。かっこいい。これだけ大きなバンドなので政治的な影響力も持っていただろうとは想像できるが、ここまでだったとは。
ご多分にもれずというか、若者が夢中になるものは世間から悪しざまに言われるもので、ビートルズもそうだったよう。アメリカに行った時の記者の対応の冷たいこと。それにユーモアで返していく4人がたのもしい。確かアメリカじゃなかったと思うけど、一番痺れた回答が、何故偉そうなのかと言われて、「質問にはいい答えを出したいと持っているが、悪意のあるものにはいい答えは出せない」というもの。時代におもねることなく、自分達を貫き通したバンドだったんだと思った。はー、かっこいい。当時の若者が熱狂するものわかる。

見終わってから、解散までの顛末を調べた。この映画は4人で音楽やるのが一番楽しいと本人たちも感じている時期を切り取ったものだったんだなと思った。これがビートルズのすべてではないのだろうけど、こんなにキラキラした青春の1ページを見られて、よかった。

タイトルの「EIGHT DAYS A WEEK」は彼らの曲のタイトル。作中でも流れて、週に8日あっても足りないくらいに君のことを愛していると歌う。
なぜこれがタイトルになったのかって考えたとき、週に8日あったら、その1日で、彼らはきっとスタジオでセッションするんじゃないかなって思った。そのくらい、4人で音楽やるのが楽しいって、この映画からは伝わってきた。でも、その1日は休んでほしいと、心から思う。

永い言い訳

夏子に髪を切ってもらう幸夫の姿からはじまる。
家で髪を切ってもらっている姿に、子供の頃母親にそうしてもらったことを思い出した。あながち間違ってはいない連想かもしれないと、見ているうちに思った。
幸夫は徹底的に子供なのだ。それが簡単には変わらない。そして、そこに腹が立つ。幸夫の自己中心的な行動に、過剰な自意識にイライラさせられるのは、そこに自分を見てしまうからだ。あるわーそいういとこ、鏡に映った自分を見せられる気分、あー目を逸らしたい。

幸夫と陽一が対照的に描かれる。
夏子の死後、警察に留守電はなかったかと問われ、ないと答える幸夫。陽一はゆきからの最後の留守電を繰り返し聞いている。
灯にアレルギー反応が出てしまったときも、店の落ち度を責める幸夫と、言わなかった自分が悪いと言う陽一。
2人の対照的な人物設定も興味深かったが、幸夫と真平の配置の方に気持ちがいってしまった。
真平、灯と過ごすようになった幸夫の態度が、柔らかく、対等に思えたのだ。生前の夏子のことを初めて話すのも、真平にだった。そうだ、幸夫も子供だったのだ。
子供たちの面倒を見ているうちに、大宮家との関係も深まり、幸せそうに見える。ようやく穏やかな日常と取り戻したかのように見えてくる。

それが、岸本の一言で変わる。「子育ては男にとっての免罪符」
たぶん、図星なのだ。夏子の亡くなった現実に向き合わず逃げているだけだと言われた瞬間から、だから、幸夫の行動は逃げになる。
灯の誕生会で、子供のことで陽一と口論になった時(というか、幸夫が勝手にいじけて愚痴る時か)、幸夫は、自分達は子供を持たないと決めてたと言うと、陽一が「なっちゃんは欲しかったと思うよ」と返す。
夏子は子供が欲しかったのだ。それを幸夫も知っていたと思う。なぜなら、幸夫の想像の中に出てくる夏子は子供たちと笑っているからだ。4人で海に行く場面で、海辺に夏子が現れる。真平と灯と浜辺で楽しそうに笑っているのだ。ポスターに使われている画がそれ。
夏子は子供が欲しかったんだなと、なんとなく思ったのは、陽一、ゆき、真平、灯と過ごすとき、自分は一人で幸夫はいなくて、家族ぐるみのお付き合いにならないなとそう思ったとき、夏子はどんな気持ちでいたんだろうと想像した。その時、ふとそう思ったのだ。
そう思った場面を思いだそうとしているのだけど、はっきりしない。

海辺で、ゆきを思いだしてすぐ泣く陽一と違い、自分は葬式で泣けなかったと真平が、幸夫にもらす。それは幸夫も同じなのだ。悲しみ方はひとそれぞれ、泣けないから悲しんでいないことにはならない。幸夫は真平を慰めながら、自分にも言い聞かせていたのではないだろうか。
これをきっかけに、幸夫はテレビ番組への出演を決める。私は、自分の悲しみを客観視したいために思えた。
常に自分がどう見られるかを気にしていた自意識過剰な幸夫が、見せ方を演出され戸惑っているところがおかしくて、幸夫の変化だと思った。けど、人間そんなに簡単に変わらないと、西川監督は見せつけてくる。
それが、さっきも書いた、灯の誕生会。そこでの幸夫は、思い通りにならなくていじけて八つ当たりするただの子供。
でも、変化もみえる。夏子の死後、台所も居間も片付いていなかったのに、洗濯物をたたみ、料理をするようになった。
そこに、陽一が事故にあったと真平から電話が入る。真平と二人で、陽一を迎えに行くんだけど、その前に灯を鏑木先生のご両親に預けにいくシーンがあって、それが泣けた。
灯の誕生会で幸夫がいじけたのは、鏑木先生の存在が大きくて、彼女がいることで勝手に疎外感を持って、彼女の両親が子供の預かりをやっているってことも、意地みたいな感じで否定してしまう。
ただ、陽一は、幸夫がこれなくなってから、鏑木先生のご両親に預けていたんじゃないかと思うの。だから、慣れているところに灯を預けに行ったと、幸夫がそう判断したんだとしたら、それは、灯のための行動で、変に意地を張らなくなったことが、彼の変化に感じられたのだ。

向かう列車で、幸夫は真平と向かい合って座る。真平に語りかけながら、これは、幸夫が自分自身に、向き合っているのが可視化されているのだと思った。
ようやく、ここで夏子の死に、今までの自分に向き合うことができたのだ。だから、幸夫は真平と別れて、一人で帰る。トラックから手を振って去る真平を見送るのだ。

幸夫の後ろに理容室の赤と青と白の看板が見える。
ずっと夏子に髪を切ってもらっていたから、これからはどうしたらいいんだろうという、幸夫の弔辞に、きっとラストは髪を切るんだろうなと思った。
ちなみに、この弔辞が夏子の遺品を片づけているときに幸夫のナレーションでかかるので、夏子に対する独白かと思いきや、弔辞だった。幸夫の自意識の強さが表れていて上手い演出だと思った。
それで、後ろの理容室に入るのかなと思っていたら、夏子の店だった。そりゃそうだ。美容室で髪を切る時、鏡に映る自分と対面する。幸夫はこれから今の自分と向き合って生きていくのだ。