ネタバレなしでは語れない

映画大好き。感想はネタバレしないと語れないので、思いっきり結末にふれています。

THE BEATLES EIGHT DAYS A WEEK

私は、THE YELLOW MONKEYが好きだ。私は彼らをライブバンドだと思っている。メンバー4人がライブを楽しんで、盛り上がり、いい音が出せて、曲作りとか、レコーディングとか、プロモーションなど、色んなことが上手く回り始めると思っている。ライブを軸にしているバンドだと思っている。
そいうい意味で、ビートルズはスタジオバンドだったんだなと、この映画を見て思った。スタジオで4人で音を出し合って、グルーブを構築していく。その過程を楽しんで時間をかけるからこそ、ライブや他のことも上手く行く。メンバーもスタジオで音を作っているときが楽しいと言っていた。
でも、全世界を飛び回るワールドツアー、合間の映画撮影、メディアに追いかけられながらの生活の中で、じっくりと、メンバーでひざを突き合わせてスタジオでの時間を持てるはずがない。当時の熱狂は想像以上だった。

ビートルズのイメージというと、神格化された伝説のバンド。あとは、バンドのイメージというより、ジョンレノン。
でも、4人のバンドだった。ジョンがいて、ポールがいて、ジョージがいて、リンゴがいる。
出てくる写真、映像はとにかく4人の距離が近い。互いを信頼し合ってて、4人で音楽やってるのが本当に楽しそう。ソファーに座ってるときなんて、重なり合ってるよ、絶対。インタビュー受けてるとき他のメンバーがいたずらしたり、ベッドで騒いでたりと、とにかくかわいい。当たり前だけど、私が知ってるビートルズなんてほんの一部分で、しかも作り上げられたものだったんだと知った。生身のビートルズに触れた気がした。

一番印象に残ったのが、白人とそれ以外の席が分かれて行われるライブが当然だった時代に、それにNOを突き付けたこと。かっこいい。これだけ大きなバンドなので政治的な影響力も持っていただろうとは想像できるが、ここまでだったとは。
ご多分にもれずというか、若者が夢中になるものは世間から悪しざまに言われるもので、ビートルズもそうだったよう。アメリカに行った時の記者の対応の冷たいこと。それにユーモアで返していく4人がたのもしい。確かアメリカじゃなかったと思うけど、一番痺れた回答が、何故偉そうなのかと言われて、「質問にはいい答えを出したいと持っているが、悪意のあるものにはいい答えは出せない」というもの。時代におもねることなく、自分達を貫き通したバンドだったんだと思った。はー、かっこいい。当時の若者が熱狂するものわかる。

見終わってから、解散までの顛末を調べた。この映画は4人で音楽やるのが一番楽しいと本人たちも感じている時期を切り取ったものだったんだなと思った。これがビートルズのすべてではないのだろうけど、こんなにキラキラした青春の1ページを見られて、よかった。

タイトルの「EIGHT DAYS A WEEK」は彼らの曲のタイトル。作中でも流れて、週に8日あっても足りないくらいに君のことを愛していると歌う。
なぜこれがタイトルになったのかって考えたとき、週に8日あったら、その1日で、彼らはきっとスタジオでセッションするんじゃないかなって思った。そのくらい、4人で音楽やるのが楽しいって、この映画からは伝わってきた。でも、その1日は休んでほしいと、心から思う。

永い言い訳

夏子に髪を切ってもらう幸夫の姿からはじまる。
家で髪を切ってもらっている姿に、子供の頃母親にそうしてもらったことを思い出した。あながち間違ってはいない連想かもしれないと、見ているうちに思った。
幸夫は徹底的に子供なのだ。それが簡単には変わらない。そして、そこに腹が立つ。幸夫の自己中心的な行動に、過剰な自意識にイライラさせられるのは、そこに自分を見てしまうからだ。あるわーそいういとこ、鏡に映った自分を見せられる気分、あー目を逸らしたい。

幸夫と陽一が対照的に描かれる。
夏子の死後、警察に留守電はなかったかと問われ、ないと答える幸夫。陽一はゆきからの最後の留守電を繰り返し聞いている。
灯にアレルギー反応が出てしまったときも、店の落ち度を責める幸夫と、言わなかった自分が悪いと言う陽一。
2人の対照的な人物設定も興味深かったが、幸夫と真平の配置の方に気持ちがいってしまった。
真平、灯と過ごすようになった幸夫の態度が、柔らかく、対等に思えたのだ。生前の夏子のことを初めて話すのも、真平にだった。そうだ、幸夫も子供だったのだ。
子供たちの面倒を見ているうちに、大宮家との関係も深まり、幸せそうに見える。ようやく穏やかな日常と取り戻したかのように見えてくる。

それが、岸本の一言で変わる。「子育ては男にとっての免罪符」
たぶん、図星なのだ。夏子の亡くなった現実に向き合わず逃げているだけだと言われた瞬間から、だから、幸夫の行動は逃げになる。
灯の誕生会で、子供のことで陽一と口論になった時(というか、幸夫が勝手にいじけて愚痴る時か)、幸夫は、自分達は子供を持たないと決めてたと言うと、陽一が「なっちゃんは欲しかったと思うよ」と返す。
夏子は子供が欲しかったのだ。それを幸夫も知っていたと思う。なぜなら、幸夫の想像の中に出てくる夏子は子供たちと笑っているからだ。4人で海に行く場面で、海辺に夏子が現れる。真平と灯と浜辺で楽しそうに笑っているのだ。ポスターに使われている画がそれ。
夏子は子供が欲しかったんだなと、なんとなく思ったのは、陽一、ゆき、真平、灯と過ごすとき、自分は一人で幸夫はいなくて、家族ぐるみのお付き合いにならないなとそう思ったとき、夏子はどんな気持ちでいたんだろうと想像した。その時、ふとそう思ったのだ。
そう思った場面を思いだそうとしているのだけど、はっきりしない。

海辺で、ゆきを思いだしてすぐ泣く陽一と違い、自分は葬式で泣けなかったと真平が、幸夫にもらす。それは幸夫も同じなのだ。悲しみ方はひとそれぞれ、泣けないから悲しんでいないことにはならない。幸夫は真平を慰めながら、自分にも言い聞かせていたのではないだろうか。
これをきっかけに、幸夫はテレビ番組への出演を決める。私は、自分の悲しみを客観視したいために思えた。
常に自分がどう見られるかを気にしていた自意識過剰な幸夫が、見せ方を演出され戸惑っているところがおかしくて、幸夫の変化だと思った。けど、人間そんなに簡単に変わらないと、西川監督は見せつけてくる。
それが、さっきも書いた、灯の誕生会。そこでの幸夫は、思い通りにならなくていじけて八つ当たりするただの子供。
でも、変化もみえる。夏子の死後、台所も居間も片付いていなかったのに、洗濯物をたたみ、料理をするようになった。
そこに、陽一が事故にあったと真平から電話が入る。真平と二人で、陽一を迎えに行くんだけど、その前に灯を鏑木先生のご両親に預けにいくシーンがあって、それが泣けた。
灯の誕生会で幸夫がいじけたのは、鏑木先生の存在が大きくて、彼女がいることで勝手に疎外感を持って、彼女の両親が子供の預かりをやっているってことも、意地みたいな感じで否定してしまう。
ただ、陽一は、幸夫がこれなくなってから、鏑木先生のご両親に預けていたんじゃないかと思うの。だから、慣れているところに灯を預けに行ったと、幸夫がそう判断したんだとしたら、それは、灯のための行動で、変に意地を張らなくなったことが、彼の変化に感じられたのだ。

向かう列車で、幸夫は真平と向かい合って座る。真平に語りかけながら、これは、幸夫が自分自身に、向き合っているのが可視化されているのだと思った。
ようやく、ここで夏子の死に、今までの自分に向き合うことができたのだ。だから、幸夫は真平と別れて、一人で帰る。トラックから手を振って去る真平を見送るのだ。

幸夫の後ろに理容室の赤と青と白の看板が見える。
ずっと夏子に髪を切ってもらっていたから、これからはどうしたらいいんだろうという、幸夫の弔辞に、きっとラストは髪を切るんだろうなと思った。
ちなみに、この弔辞が夏子の遺品を片づけているときに幸夫のナレーションでかかるので、夏子に対する独白かと思いきや、弔辞だった。幸夫の自意識の強さが表れていて上手い演出だと思った。
それで、後ろの理容室に入るのかなと思っていたら、夏子の店だった。そりゃそうだ。美容室で髪を切る時、鏡に映る自分と対面する。幸夫はこれから今の自分と向き合って生きていくのだ。

高慢と偏見とゾンビ

こういう恋愛映画が見たかった。
作中で一番ロマンチックに見えた場面は、エリザベスとダーシーが、地面から湧き出てくるゾンビを二人で刺すシーンだった。エリザベスは恋をしても武器を捨てることはしない。
この、武器を自らが持つこと、その武器を男性に恋をしたからといった理由で捨てないことがこの映画最大の素晴らしいところだと思った。

古典的恋愛小説の名作「高慢と偏見」が、ゾンビがはびこる世界を舞台に展開されると聞いて、なんだ、それ、と正直見る前は思いましたよ。
ところが、紛れもなく描かれているのは「高慢と偏見」の世界。とんでも設定かと思いきや、とんでも設定なんだけど、しっかりと「高慢と偏見」の感情の揺れ動きや、プライドゆえに素直に相手を見られないところが描かれていて、それが何の違和感もなくゾンビの世界で繰り広げられている。見事な融合。
それが一発でわかるように描かれていたのがベネット家5人姉妹登場のシーン。まず、ここでやられた。だって、皆して銃を磨きあげているんだもん。そこに母親が、隣に金持ちの独身男性ビングリーが引っ越してきたと喜びながら入ってくる。彼も参加する舞踏会に行くためコルセットを締めあげ、ドレスに着替える5人。ガーターに武器を仕込むシーンのかっこよさと美しさ。
小説「高慢と偏見」に描かれている18世紀イギリスの価値観、女性は結婚する以外生きていく道はないのだからできるだけ金持ちをつかまえる、と、ゾンビのはびこる世界で生きるための価値観、自分と大切な人を守るため女性も武道を身につける、という2つの価値観が見事に融合された、映画の世界観に一気に引き込まれたシーンだった。

舞踏会で一目で恋に落ちる5人姉妹の長女ジェインとビングリービングリーの友人ダーシーは、舞踏会に男目当てで来る女性陣がお気に召さない様子で、エリザベスのことを「たいして美しくもない」と言ってしまい、それを聞いてしまい落ち込むエリザベス。
そこに大量に入り込んでくるゾンビ。ドレスの下に仕込んだ武器で、身につけた武道で、バッタバッタとゾンビを倒していく5人姉妹。
それを見ているダーシーの目、完全に墜ちてます。恋に。私も。
5人姉妹なら、エリザベスだけが強いのかと思うでしょう、ところが5人とも強い。この設定に拍手。舞踏会終わった後、姉妹で彼、どうだったーって話が始まるんだけど、それが訓練しながらで、笑った。拳や蹴りを受けながら、吹っ飛ばされながら、「あんな高慢な男見たことない」って、ダーシーのこと報告するエリザベス。いや、普通に座って話せよ。

闘うエリザベスを見て恋に落ちるダーシー。ビングリーもジェインのその姿を見ているが、それが原因で気持ちが冷めることはない。
ダーシーが嫌うのは、5人姉妹の母親の価値観の方だ。ジェインをビングリーに嫁がせるのは、彼が金持ちだからだと言うのを聞いたダーシーは、ビングリーにジェインはふさわしくないと、二人の仲を引き裂く。
18世紀の価値観を生きる人物がもう一人、5人姉妹の従兄で、ベネット家の相続人、コリンズだ。彼はエリザベスにプロポーズする際、もうゾンビと闘うのはやめてほしいと言う。それは、結婚したら仕事を辞めてほしいとか、働き続けてほしい(けど、家のことはちゃんとやってね)とか言う現代でも聞く話のよう。話し合いはするかもしれないが、結婚後に仕事を続けるか辞めるか、ゾンビを倒し続けるかを決めるのは、結婚相手の男性ではなく、彼女自身なのだ。
コリンズの申出を断ったリザに、母親はこう言う。「私はどうやって生きていけばいいの」と。女性に財産の相続権がなかった時代、女性が生きるには金持ちの相手と結婚するしかなかった。その価値観で生きてきた母親が、こう憤るのも当然。
ところで、このコリンズが、ひと目見ただけでいけ好かないキャラというのが伝わってきて、役作りに拍手。

作中笑ってしまったシーンも多い。
隣の女性も笑っていたのが、エリザベスが死肉ハエを素手で捕まえるシーン。
ビングリー家へ向かう途中、ゾンビと遭遇したジェインは戦いの末ゾンビを負かすが、熱を出してビングリー家で倒れてしまう。ジェインのゾンビ感染を疑うダーシーは、こっそりと、ゾンビを見分ける能力を持つ死肉ハエを放つ。見舞いに来たエリザベスは、姉の身を心配しながらも、空中で素早くハエをキャッチ。見ることもなく、つまり音だけでハエを追って、一発でしとめる。全部取った後、握りつぶしてダーシーに返す。って何このシーン、書いてておかしいわ。
エリザベスはダーシーがハエを放つシーンを見ていないから、気配で感じたんだろうね。こういうとこにも、ダーシーは惚れちゃったんだろうね。もちろん私もね。

ダーシーはついにエリザベスにプロポーズ。からの、闘いのシーンもおもしろかった。何故この場面で闘う。でも、エリザベスはダーシーのベストを割き、ダーシーもエリザベスの胸元を切る、というシーンで納得。2人は闘うことで気持ちを確かめあっているのだ。文字通り胸襟を開いて。
プロポーズが失敗に終わった後、ダーシーは日本刀で植木に切りかかる。エリザベスもコリンズからの求婚後、むしゃくしゃした気持ちを剣を振り回すことで解消している。この二人、似た者同士ですね。
ちなみに、金持ちのダーシーやビングリーとその妹たちは日本で修業し、そこまででもないベネット家は中国で修業したという設定。細かいけど、身分の差を表していて面白い。

笑えるシーンやとんでもなシーン見ても、2人の恋愛に結び付けてしまうほど、物語に入りこめたのは、小説「高慢と偏見」と、組み合わせた舞台の世界観が同じ熱量で描かれていたからだと思う。ただの設定に陥ってなくて、きちんと物語の中に組み込まれているのがよかった。
感想の中で、ダーシーがエリザベスに墜ちる瞬間、私も墜ちてると書いてるが、これは、エリザベスに墜ちるのはもちろん、それ以上に作品に墜ちているということです。

そして、物語はクライマックスへ。コリンズと結婚すると言いだしたエリザベスの妹は、ウィカムにそそのかされ、ゾンビの集う教会へと連れ去られてしまう。
ウィカムについては、割愛。
妹を助けに向かうエリザベスとジェイン。ゾンビのいる地域へかかる橋は、時間になったら爆破されることになっており、時間はない。その途中、ゾンビに襲われているダーシーをエリザベスが助け、最初に書いた二人で地面から湧き出るゾンビを刺すシーンが出てくる。
ダメ押しで、ゾンビ化したウィカムに襲われ、ダーシーあわやという時、表れるのは白馬に乗ったエリザベス。なんだよ、王子かよ。
妹も無事で、エリザベス&ダーシー、ビングリー&ジェインの結婚式でラストと、思ったら、エンドロール途中で切れて、ゾンビが向かってくる。この、ラストもらしくて好きだった。

ハドソン川の奇跡、なんかじゃない

少し前、ツイッターで「女性映画が日本に来るとこうなる」というハッシュタグが話題になった。女性の自立や強さ、女性を取り巻く厳しい社会をテーマにしている作品が、恋愛や癒し、母性を前面に押し出したポスターやキャッチコピーにされている。
日本が女性から何を奪おうとして、どういう枠にはめようとしているかが分かりやすく可視化されていた。それに腹も立つけど、何より、このせいでどれだけ自分好みの作品を見逃していたんだと思うと、ほんと腹が立った。
この映画は女性映画というカテゴリーではないのだけど、見ながら邦題あってなくないかと思い、「女性映画が日本に来るとこうなる」を思いだしたのだ。これは、奇跡なんかじゃない。

原題は「Sully」。主人公の愛称。タイトル通り主人公の目線で物語は進んでいく。彼の知らないことは画面にほぼ映らない。これは彼の物語。
まず、奇跡なんかじゃないと強く思ったのは、彼の葛藤だ。
物語は飛行機がニューヨークの街中に突っ込むシーンではじまる。次に目を覚ますサリ―。冒頭の映像はサリーの夢なのだ。この時にはすでにハドソン川への不時着水後。
また、サリーはニュースキャスターに「あなたは自分のことを英雄だと思っているのか」と聞かれる夢を見たり、バーのテレビで自分が映るニュースを見ているとき、サリーに気がついている他の客の「機長が二人いる」という言葉に、本当の自分はどっちなのか見失うようなシーンがある。
彼は自分の判断が本当に正しかったのか、他に選べる道はなかったのかという葛藤を抱えているのだ。

もうひとつの理由は、彼の職責の強さ。
不時着水後の機内を最後まで取り残されている人がいないか確認する。生存者の数を自分で確認しようとする。副機長に指摘されるまで、濡れた制服を着続けていることにも気がつかない。
最大の見せ場は、公聴会だと思う。
そこで披露されたシュミレーションでは、空港に引き返して無事着陸して終わる。それにサリーは異を唱える。エンジン停止後、シュミレーターはすぐに空港に引き返すという判断を下す。しかし、実際、そこには判断するための手段と時間が存在するはずだと。その時間13秒を待って、再び空港に引き返すシュミレーションを行うと、飛行機は着陸できないという結果が出る。
しかも、サリーは事前に公聴会でシュミレーションを公開するよう自ら要請しているのだ。
これが、本当にすごいと思った。物語の中でも緊張感の増す見せ場で、当事者であるサリーの緊張や不安なんかそりゃ、そうとうなものだろう。そんな中でも、彼は冷静だ。パイロットという仕事、役割への理解の高さが感じられる。
サリーが、事故調査委員会が「墜落」って表現するのを、一回一回「不時着水」って訂正するのもよかったな。こういうシーンの積み重ねって大事。


あと、キャッチコピー「155人の命を救い、容疑者になった男」にも違和感。私は、現実の事故自体は知っていたけど、その後を知らなかったから、映画を見る前は、サリーが訴えられたのかと思っていた。

映画の中で、サリーも事故調査委員会も原因を究明しようとしていて、誰も彼を裁こうとはしていない。サリーも責任を逃れようなんて考えもない。ただ、どういった判断を積み重ねて不時着水という選択をしたのかを説明していく。その姿勢が本当に素晴らしかった。

調べてみたら、「ハドソン川に奇跡」と言ったのは、ニューヨーク州知事だったのね。実際に使われた言葉だけど、映画の中に描かれたのは、やっぱり奇跡なんかじゃないと思うのよ。
奇跡って、いいことだけど、この映画で使ったら、サリーが積み重ねてきたものとかが否定されてしまうように感じるの。

この物語は、彼を奇跡を起こした英雄にはしない。一人の人間として描く。だから、原題がふさわしいと思った。

クリード チャンプを継ぐ者

勝敗は関係なく、リングに上がり続けることが大切だというロッキーシリーズのメッセージは受け継ぎつつ、リングから降りたロッキーも優しく描き切った作品だった。

 

ロッキーシリーズを1本も見たことがなかったので、見てから行くか、秋に診てしまうか迷っていたところ、趣味の合う友人から1作目のロッキーとファイナルがおすすめと聞き、2作品見てから鑑賞。この作品自体は過去作を見ていなくても楽しめるように作られていますが、見ていってよかったと思いました。それは、フィラデルフィアの街並みを時間の経過と共に見られるからです。ロッキー自身とフィラデルフィアの様子はリンクして描かれているように思いました。

 

1作目のロッキーでは、フィラデルフィアは雑然とした貧しい地域のように見えました。治安もあまりよくはなさそう。そして、ロッキーは世界王者のアポロと戦います。今から抜け出そうという力強さを感じる作品でした。

ファイナルでは、寂れています。エイドリアンの働いていたペットショップは潰れ、デートをしたスケートリンクは跡かたもありません。マリーの家の隣はボロボロです。全盛期からは遠のいたロッキーの姿と重なります。そんな境遇に甘んじることなく、年齢を言い訳にすることなく、ロッキーは戦います。

冒頭に書いた、リングに上がり続けることの大切さを強く描いた作品です。

 

そして、今作クリードフィラデルフィアは小ざっぱりとしています。荒れた雰囲気もなく、現代の街並みです。そこにやってくるドニー。ロスからきたお坊ちゃんと揶揄されて迎い入れられますが、その彼が、フィラデルフィアに居場所を作っていきます。

彼の人物造形も現代的だと感じました。ビアンカがボクシングはもっと不良がやるものでしょというニュアンスのセリフを言います。ドニーはたぶん大学も出て、証券会社で昇進もし、将来を期待された優秀なビジネスマンです。養母メアリーアンに大切に育てられてきたことがうかがえます。

それでも彼の中で消化しきれない、父親への葛藤。会社を辞め、プロボクサーを目指すと決めた夜、彼はユーチューブで父アポロと、ロッキーの試合を見ます。しばらく眺めていた後、画面の前に立ち、映像に合わせてパンチを繰り出します。見なくても次にどんなパンチがくるか、どう動くかが体に染みついているんです。何度も何度も見たのでしょう。このシーンは、辛かった。なぜなら、彼が映像に合わせてパンチを打つ相手が、父アポロだからです。ドニーはロッキーと同じ動きをして、父親を打っているのです。

 

ドニーはプロになるため、ロッキーに指導してほしいと頼みに行きます。フィラデルフィアで、ロッキーは、レストランを経営し、エイドリアンとポーリーの墓に話しかけるのを日課にして生活しています。ジムには顔を出しておらず、ボクシングからは距離を置いているようです。現代的なフィラデルフィアに取り残されているように感じました。

そこに現れるかつてのライバル、アポロの息子。申出を断るロッキーでしたが、引き受けてからの様子がよかった。とにかく楽しそうなんです。朝練に向かうのに、ドニーが起きたときには準備万端で、ウキウキしながら音楽をかけてステップを踏んでいます。ドニーの隣でパンチングボールをニコニコしながら打っています。ロッキーはやっぱりボクシングが好きなんだなと改めて感じるいいシーンです。

ドニーは素直にロッキーの指導を受入、メキメキ成長していきます。でも、父親がアポロだということはどうしても口にすることができません。ジムのオーナーの息子との試合の直前、それがばれそうになりますが、ロッキーが止めます。彼に父親の名前を背負わせないでやってくれと頼むセリフに、かつて父の名前の重さに悩んだロッキーの息子、ロバートを思い出しました。

試合に勝った翌日、ドニーの出自がスクープされます。かつての世界王者の愛人の息子、トレーナーはそのライバルだったロッキーとくれば、世間が放っておきません。問題を起こして引退寸前の世界王者コンランから試合の申出があります。ドニーの実力ではなく、話題性に飛びついてのことでした。条件として、父親の名前で出ることが求められます。ためらうドニー。父親の名を背負い、負けてしまうことを恐れるドニーに、ビアンカは関係ない、勝っても負けてのドニーはドニーだと励まします。

タイトルマッチに向けて特訓を重ねるドニーの周りには、彼を支えるチームがあります。ロスからきたお坊ちゃんと笑われていた時から、彼は自分の居場所をこの街に作り上げたのです。そして、試合の直前、同じくらい大きな支えが届きます。息子に父親と同じ道を歩んでほしくないとプロになることを反対していたメアリーアンからです。赤と白のストライプ。クリードと刻まれたボクサーパンツを身につけて、ドニーはリンクへ向かいます。

激しい打ち合いの試合で、ドニーはKO寸前。リングに倒れ込んでしまいます。その時、走馬灯のように記憶が蘇ります。メアリーアンと初めて会っとき、ロッキーやビアンカ。そして、父アポロの姿。その瞬間、ドニーは意識を取り戻し、立ち上がります。もう、涙が止まりませんでした。映像に合わせて父を打っていた時、ドニーにとって父親は倒すべき存在でした。それが、励まし、応援してくれる存在に変わったのです。

判定でドニーは負けます。でも、判定を聞かないうちに彼らはリングを降ります。勝ちも負けも関係ない、力の限り闘うことが大切だというロッキーシリーズの力強いメッセージです。

ただ、今作では、もうひとつのメッセージが描かれています。それは、リングを降りたロッキーに対するものです。

 

時間はタイトルマッチの前に遡ります。練習中に、ロッキーはリングの上で倒れてしまいます。診断の結果は、癌。初期段階だから化学治療で治るという医師に対し、かつて同じ病気で苦しんだエイドリアンを思い、治療を拒否するロッキー。生きてほしいというドニーの気持ちに応え、治療を受け入れるロッキー。でも、ロッキーはもうリングに立つことはできません。それを象徴するシーンとして、リング上で倒れたロッキーをドニーが起こし、「リングを降りるよ」という場面があります。

1作目では、ロッキーは自分自身もリングに立つことを望み、周りもそれを期待しました。

ファイナルでは、ロッキー自身にリングに立ちたいという気持ちはありましたが、周りは反対しました。

これからは、ロッキー自身も、周りも望まないでしょう。それでも当たり前ですがロッキーの人生は続きます。

ラスト、いつも訓練で駆け上がっていた階段を、ドニーに支えられてようやく登り切ります。そこからの眺めは、かつてのフィラデルフィアとは変わっています。1作目で大通公園のような緑の帯が見えた風景が、ビル群に変わっています。物語の始まり、現代的になったフィラデルフィアに取り残されたように見えたロッキーでしたが、この場面のビル群はロッキーのこともドニーのことも包み込んでいるように見えました。

これから成長していくドニーのことも、リングに上がることはないロッキーのことも、同じように受け入れているように感じたのです。これが、今作に感じたもう一つのメッセージです。

人は誰でも、いつかリングから降りるときが来ます。年齢的なことかもしれないし、年齢とは関係なく自ら望むことかもしれないし、望まなくても否応なしにそうなることもあるかもしれません。リングに上がれなくなったロッキーに価値はあるのか??もちろんある。いや、価値なんてどうでもいいのかもしれない。自らが選んだ人生を、否応なしに選ばされた人生を、引き受けて生きていくこと。その大切さが描かれていました。

でも、それは違うリンクで生ていくこととも言えます。書いていて気が付きました。ロッキーシリーズのメッセージは、一貫されていました。

ぼくらの家路

この邦題、好きじゃない。ジャックの苦しんだこととか、傷ついた気持ちとか、そういうのなかったことになってる気がする。

 

目を覚ましたジャックは、弟を起こし、食事の用意をして食べさせてやる。母親の姿はない。自分は食パンをかじりながら学校へ向かう。多分、毎朝繰り返されている光景だろう。

しっかりしているジャックが、わざと我儘を言う場面が出てくる。

母親と彼氏がベッドにいる部屋に、分かっていて、お腹が空いたと入っていく。母親は怒るでも驚くでもなく(彼氏は驚いて憤るが)、裸のままキッチンへ行き、食べるものを出してやり、食べるジャックを見守る。

翌朝、母と弟と遊んでいると、彼氏が混ざってくる。それまで楽しんでいたジャックは冷めた目で彼の洋服や靴を窓から投げ捨てる。ここでも母親は怒らない。怒る彼氏からジャックをかばう。そして、怒って出ていった彼を追いかけていく。

戻ってきた母親は不機嫌で大きな音を出して皿を洗い始める。ジャックは様子を窺うように飲みかけのコップを持って母親の側に行く。

母親は仲直りの印とばかりに、ココアを入れてやる。嬉しそうに飲むジャックと、見守る母親。

母親がジャックに怒らないのは、甘えだと思った。

この、ジャックが彼氏を怒らせるようなことをする、母親が困る、ジャックが機嫌を窺う、母親はジャックを許すという一連の行為は、何度も繰り返されているような気がする。

これによって母親は母親でいられて、ジャックは子供でいられると確認し合っているように思うのだ。

ジャックは、それしか方法を知らないのだ。母親はこの方法に甘えているのだ。

 

ジャックがこの連鎖を断ち切ったのが、母親の「短い間よ」の一言。

短い間とは、母親と連絡がつかなかった3日間のこと。ジャックはこの間に弟を守るために知恵を働かせ、怖い目にもあい、不安で、心細くて、辛かったと思う。ジャックが強くあろうとすればするほど、見ていて辛かった。

母親の元カレらしきレンタカー会社に勤める男性の元でも、ジャックはマヌエルのように安心して寝ることもなく仕事をする。ジャックが安心して子供になれる時間なんて、この3日間一度もなかったのだ。

母親はそれに思い至ることもない。

子供になれる時間って書いたけど、残酷な表現だと思った。子どもで「いられる時間」じゃなくて、「なれる時間」。マヌエルのように寝られる時間があって当然なのに、ジャックにはそれがない。

 

このまま母親と一緒にいたらダメだと直感したとき、ジャックの表情が、一瞬強張ったように見えた。

靴紐が結べるようになったよと母親に見せるマヌエルと、それを褒める母親。ジャックはそこに交わらず、一人で食事を続ける。苛立っているように見える。ジャックは感情を表すことがほとんどない。辛すぎる全編で涙するのは一度だけ。代わりに自分がどれだけ泣いたか。

 

この3日間のことは母親に言っても分かってもらえない。絶対言わないとばかりに、母親に残したメッセージが書かれた紙を握りつぶすジャック。

翌日、母親を起こさないようにマヌエルを連れて家を出る。行き先は予想がつく。絶対当ってる。だから辛い。だって、それは大人のすることだ。

この映画には大人が2人しか出てこない。施設の先生と、レンタカー会社の元カレだ。母親の勤め先や友人たちはあまりにも無関心だ。

先生は施設からいなくなったジャックを連れ戻しに家まで来る。

元カレは警察に連れて行こうとする。ジャックは拒み逃げるが、警察に行ったら、施設に戻されることは間違いない。

施設に戻させるという選択をするのは大人の役割だ。それをジャック本人に、弟の手まで引かせてさせるのは、すごく酷だ。

インターホンに「ジャックです」と名乗って物語は終わる。原題は「JACK」。このタイトルがぴったりだと思う。ほんわかした邦題も、「子供が大人になる切なくも希望に満ちた瞬間を切り取った感動の物語」ってコピーも気に入らない。

ジャックは大人になったんじゃなくて、ならざるを得なかったんだよ。いつかは誰だって大人になる。でも、それを急がないといけなかったジャックを見て、私は辛かった。もっと子供でいさせてあげたかった。それが許されない環境だったんだよ。希望になんて満ちてない。少なくとも、ジャックの胸の内に希望なんてなかったと思う。それでもそう決断せざるを得なかったジャックが、少しずつでも安心して寝られるようになればいいなって、そう願った。その積み重ねの先に、ジャック自身が希望を見出せたらいいなと思った。

マジック・マイクXXL

テルミーワイにのせて踊るリッチーには、笑った。楽しんだ。彼らの肉体に、美しいなぁと見とれた。

でも、ローマの会員制のクラブで行われている、お札が飛び交い、見世物のように男性と女性が絡み合う場面は、正直戸惑った。

 

どう見ていいのか分からないのだ。恥ずかしさと嫌悪感と好奇心と罪悪感と、様々混じり合って、笑えないし、楽しめない。どう見るかなんて、自分で決めることなのに、それができない。

複雑な気持ちのまま見ていると、離婚で傷ついた心を癒したいから、ここに来たという女性が登場する。男性は彼女のために君はスペシャルだと歌う。

傷ついた心を癒しに来た彼女と、それを引き受けてくれる男性。

ここは、そういう場所なんだと思ったら、私は楽しめると思った。

 

でも、まだ晴れないモヤモヤがあった。それは、傷をいやすという条件がないと来たらいけないのか?純粋に楽しみたいでもいいじゃないか、という思いだった。

「傷をいやす」という条件を勝手に設けているのは自分。自分の欲望を受け入れるのに、「傷をいやす」という条件を設けないと受け入れられないことに気がついたのだ。

そう思ったら、純粋に楽しみたいって気持ちで訪れることもありだと、理解できた。

 

なぜ条件を設けなければいけなかったのかといえば、女性は自らの性欲をあらわにするべきではない、それをするのははしたないことだ、に縛られていたからだ。その結果、自分の欲望なのに、自分でそれが分からなくなっていた。特別な条件、つまり言い訳がないと楽しめない。だから、純粋に楽しみたいという思いだけでくることに、当初拒否反応を示していたのではないか。

 

楽しんでしまえばいいのだ。彼らはそれを引き受けてくれるプロだ。見に来ている人が楽しめるように、いい気分になって帰れるようにパフォーマンスを考え、体を鍛え、ダンスに磨きをかける。

ステージシーンはローマのMCが最高。煽り方にも品があって、ダンサーに対する敬意も忘れない。

観客の女性たちもいい。照れて、恥ずかしがりながらも、ニヤニヤが止まらない。まさに見ている自分の姿。

 

観客たち見てたら、女友達数人で笑って、騒いでみたいなと思った。条件がないと自分の欲望を受け入れられないと気がついたのは、見終わった後だから、ステージシーンのパフォーマンスは、ちょっとまだ楽しむことに罪悪感を持ったままだった。それでも十分楽しかったけど、きっと今ならもっと楽しめる。