ネタバレなしでは語れない

映画大好き。感想はネタバレしないと語れないので、思いっきり結末にふれています。

チョコリエッタ

チョコリエッタから知世子を解放する物語、だと思う。そう説明していたし。

 

幼い頃、父の運転する車で事故に遭い、母親を亡くした知世子。犬のジュリエッタだけが心の支えだったが、10年後、そのジュリエッタも死んでしまう。悲しみにくれた知世子は、「犬になりたい」と進路調査票に書く。

知世子は大人になりたくないのだ。だから少年のように髪を短く切って、自分の進路を真剣に考えない。チョコリエッタと母親が呼んだ名前でいれば、母親の思い出に浸って生きていけると信じているよう。

ただ、なぜ知世子は母親が亡くなって10年も立ち直れなかったのか、なぜ心の支えがジュリエッタだけだったのか、なぜ犬になりたいのか、分からない。

大切な人を亡くして悲しいから、なのは当然分かる。でも、その分かるは、知っているであって、物語の中での知世子の悲しさが分からない。それを映画の中で感じさせてほしい。共感させてほしいということではない。知世子にとっての解放が何を意味するのか、映画の中で描いてほしいのだ。

 

正宗は爺様の呪いにかけられてると、知世子は言う。両親の離婚で傷ついた正宗をバイクで連れ出して色々な景色を見せてくれた。映画という楽しみも教えてくれた。いい爺様だと思うのだけど、どこが呪い?

正宗は、悩んでいる様子もないのに、海で「うんこまみれの世の中には流されない」といきなり叫び出す。お気楽そうに見えたけど、そう見えても誰にだって悩みはあるよね、というのは分かる。でも、これもやっぱり知っているなのだ。

正宗も何かに縛られていたのだろうかと想像してみる。爺様の呪い、浪人、潰れた爺様の病院。本当は医者になりたくないけど、爺様の病院を立て直すために医大を受験するとか、病院再開したいけど、医大に入る実力がなくて苦しんでいるとか思いつく。でも、悩んでいる描写がないから、正宗が何に縛られ、解放された状態が何を指すのかが結局わからないままだった。

 

知世子がなぜ母親の死から長いこと立ち直れなかったか考えた。映画ではそうとは描かれていないけど、父親ではないか。

事故後、病院のベットで目を覚ました知世子に、霧湖が「お父さんは隣の部屋で寝ているよ」と言うので、父親は生きていることが分かる。16歳になった知世子の物語が始まるが父親が出てこない。なかなか出てこないので、父親も死んだのかと思った。

ようやく出てきた父親は、夜テレビをつけっぱなしにしたままソファで寝ている。毛布をかけてやろうとして、知世子の手が止まる。バサッと投げるようにかける。もしかして、知世子は父親のせいで母親が死んだと思っているのかと思った。でも違うのだろう。父親はこっれきり出てこない。

そして、この後の父親の台詞が怖い。「そろそろ霧湖を解放してやれよ」

霧湖は父親の妹で、事故後、一緒に住んでいる様子だ。10年ぶりに彼氏ができて、旅行に行くという話を聞いて、知世子は不機嫌になる。家はきれいに片付いている。霧湖の彼氏は「知世子ちゃんが高校卒業するのを待って結婚しようと思っている」と言う。霧湖は文句を言うが、彼氏がその言葉を知世子に言ったことに対しての文句であって、台詞の内容にではない。怖い、怖すぎる。

父親は、母親の死後、親の役目を放棄し、家事や知世子の世話を霧湖にさせていたんじゃないかと思った。

何よりも霧湖の解放を私は望むよ。

 

「合葬」の悌二郎役の岡山天音さんが出てると知って楽しみだったんだけど、先輩役で「私たちのハァハァ」の文子役、三浦透子さんも出ていた。お二人同時に見れて、得した気分。

私たちのハァハァ

初めてのバイト代は、当時大ファンだったバレーボール選手を見に行くためのチケット代と交通費に消えた。選手と交流できる懇親会もあった。参加費が5000円だった。今なら迷わず出せる5000円が、当時高校生だった自分には、一緒に行った友達とどうするか数日迷うくらいの大金だった。そんなことを久しぶりに思い出した。

彼女たちにはお金がない。その徹底した書き方が面白かった。

いよいよ切羽詰まった時、一ノ瀬が実はバイト代があると、気まずそうに打ち明ける。

学生時代は「お金がない」の大合唱だった。それで繋がりを保っていた側面もある。だから、一ノ瀬がずっと言えなかったこと、言うときの気まずそうなところがリアルだった。

 

好きなバンドのライブのために、北九州から東京まで自転車で行く、という笑っちゃうくらいのバカさの中に織り込まれる現実的な描写がいい。

 

周りはなんとなくでも進路が決まっていることに焦りを覚えるチエ。

見た目の評価を突き付けられる現実。それに対して血液型Bって答えればよかったなと努めて明るく振る舞うさっつんと、受け入れられず必要以上に卑屈になる文子。

車に乗せてくれた中年の男性には「長時間の運転大変ですね」って気を使えるのに、年齢が近い佐々木には遠慮がない4人。

 

もうどうしようもないってなった時にケンカをする文子とチエ。チエが勢い余って「本当はクリープハイプのことそんなに好きじゃなかった」と言わなくてもいいことを言ってしまう。思い出したのは、カラオケでクリープハイプを歌って盛り上がる4人。

まさか本当に自転車で行くとは思っていなかったチエは、漕ぐのが大変な車輪の小さい自転車で来る。

三奈子の部屋でDVDを見ながら、こんなに好きなのに実際に会って思ってたのと違ってたらどうしようと、いらぬ心配をするほどのめり込んでいる文子。

互いの熱量の違いは書かれて、お互いそれに気がついていたはず。それでも、好きって思う熱量が違っても一緒には楽しめる。それまで築いてきた関係と、違うなりにも思いを共有してきた時間があるから、また4人でライブ会場を目指すのだ。

 

ステージに上がってしまった4人に、三奈子が怒りをあらわにするシーンがある。

ファンを描いた映画だという監督がインタビューで言っていた。クリープハイプのファンなのは4人だけじゃないって言ってくれているようで、安心した。彼女たちの行動を、ファンだからこそ快く思わないという、このシーンが好きだ。何かや誰かのファンになったことがある人なら絶対共感するシーンだと思う。

 

お金がないのは、本当に徹底されていて、会場まで行く電車代がないのだから、当然北九州まで帰るお金はない。結局親を頼らざるを得ないという描写が誠実だなと思った。

 

大好きだったバレーボール選手は、怪我でこなかった。バイト代つぎ込んだのに、悩んで悩んで懇親会費も振り込んだのに、会えなかった。何しに行ったんだろうと思った。

自分の高校時代を、そんなにいいもんじゃなかったけど、でも、そこもひっくるめていいもんだったんだなと、懐かしく思い返した青春映画だった。

合葬 原作を読んで

私は、本は本、映画は映画と、それぞれ独立したものとして捉えたいので、比較したりはなるべくしないようにしてるんだけど、今回、原作を読んで気がついたことがある。

 

原作で、森が斬られたことで死を意識したのか、母親に会いに行ったと語る隊士がいる。気丈な人だったのに泣かれた、会いに行くんじゃなかったと続けて語るのを読んで、映画のラスト、砂世の泣いた顔が浮かんだ。

マンガの中で語られた母親も、映画の中で泣く砂世も、一人の隊士の母親、悌二郎の妹で極の婚約者だった砂世以上の存在として描かれているのではないかと思った。

それは、戦争で子供を失った、大切な人を失った多くの母親、女性たちだと思う。決して物語の中に登場しない、多くの女性たちの悲しみが、ここに描かれているのだ。

合葬 ※ネタバレあり

「150年前のこの国の若者たちの日々が、あなたの知る青春そのものであるように見えたなら、それこそはこの映画の本懐だと思う。」

パンフレットに掲載されている、この映画の脚本家・渡辺あやさんの言葉だ。

 

そう感じる瞬間が、いくつもあった。

想いを寄せるかなが、極のことを好きだと知った柾之助の嫉妬。

薩摩を討つと息巻くも階段から転げ落ち気を失う極。目が覚めた時に側にいた柾之助とかなに、無様だろう、笑えと背を向ける自意識の強さ。

稽古で極に勝った途端、得意気に自論を展開する悌二郎の極への対抗心。その悌二郎が彰義隊を一度抜け実家に戻ったとき、兄に説教されて泣く幼さ。

極の、言葉通りの「邪魔だ、どけ」を、自分を心配する「危ない」に転換してしまうかなの恋心。

彰義隊の見回りを楽しみに待つ料理屋の娘たち。

深川からの朝帰りの隊士たち。

遠い時代に生きていた彼らも、同じように悲しみ、嫉妬し、憤り、のぼせて生きていたのだと感じる瞬間が愛おしかった。

 

なぜ、悌二郎は一度は去った彰義隊に戻り戦争に参加したのが、分からなかった。今もよくわからない。ただ、「武士という価値観」が彼をそうさせたのだろうと思った。そう感じた理由は、極の存在だ。

幕府がなくなった今、彰義隊は無用の長物と言い切った悌二郎が、彰義隊に入ったのは、森に傾倒したからだ。新政府軍を倒し幕府を再建するという強硬派を抑えるのには、悌二郎のような論客が必要だと森は説く。その夜、森の心配が的中し、料理屋に居合わせた薩摩藩士を隊士が切り殺してしまう事態が起こる。止められなかったと悔やむ森の背中を見つめる悌二郎の姿に、上様をお見送りする極の姿が重なった。

極は、江戸城を去る将軍徳川慶喜の姿をお見送りしたことで、上様への忠誠心を強くし、命を捧げることが本懐だと思うようになる。そして、極は自ら腹を切って死んだ。武士として死んだのだ。

武士という価値観が、悌二郎を彰義隊へ引き戻したのかなと、考えた。

少し話はそれて、この極の切腹が「無様」なんだ。よく物語で見られる切腹って、キレイなんだけど、極のはかっこ悪いし痛々しい。多分、本人ももっとかっこよく死ぬつもりだったんだろうけど、「かっこいい死にざま」って胡散臭い。

 

幕末は時代の変わり目だと言われる。時代の変わり目とは、一言でいえば価値観がひっくり返るときだと思う。武士という価値観によって亡くなった極と悌二郎。柾之助は、その価値観を持ち合わせていないように描かれていた。養父が亡くなり、養母に仇討を迫られるも、やる気がなく、養母が体よく自分を追い出そうとしているのが分かり、仕方なく家を出る。彰義隊に入ったのも、行くところがなかったタイミングで極に誘われたから。志に燃える極や隊士たちと違い、自分の恋に一喜一憂する。そして、その柾之助だけが生き残る。

冒頭、柾之助は、「何か」を踏む。得体のしれない、腐った「何か」の正体は、武士という価値観、古い価値観を表しているように思った。

写真館へ向かう途中、極と悌之助が水たまりを気にすることなく歩くのに対して、征之助だけが避けて通るシーンがアップで映る。

柾之助の草履の裏にはまだ、洗い流せない「何か」の血が残っているのではないか。「何か」を踏みつけて、時代は変わっていった。

 

極を弔った後、極が持っていた一枚の写真を柾之助は手にする。物語のはじめに3人で撮ったものだ。

写真館の主人の言葉が蘇る。

悪天候ゆえ、少々時を要します。固まってレンズを見つめる3人に言う、「まだまだ、まだまだ」

極と悌二郎は、武士として死ねて本望だったのだろうか。柾之助はどんな思いで写真を見ていたんだろう。

「まだまだ、まだまだ」が妙に頭に残る。時代の流れに飲み込まれていこうとする若者に、そんなに逸るんじゃない、と語りかけるような優しさが感じられるのだけど、その声は届かなかった。

 

ここで、終わりかなと思ったら、映画には続きがある。

極の許嫁で、悌二郎の妹・砂世が語り出す。

「私は罪深い人間でございます」

自殺しようとしていた砂世に、夫の尾関が、何があったか話してみろ、というと、こう切りだした。

極のことを思っていた砂世は、婚約解消を悲しみ、戦争が始まる直前、兄・悌二郎に最後に一目極に会いたいと頼む。その願いをかなえようと極の元を訪れた時、戦争がはじまり、悌二郎はそのまま戦争に参加、死んでしまう。自分の「嘘」で兄が死んだことで、砂世は自殺を図ろうとしたのだ。

砂世の語りを、物語に挿入された、隊士たちの怪談のように、初めは聞いていた。怪談は作り話だ。人から聞いた話だ。

ある満月の夜のこと、ふと目を覚ますと極の姿があった。「これは夢なのでございましょうか」と驚く砂世に、極は「満月と笛の音に誘われたのだ」と言う。

満月の夜に笛を吹いていたのは、森だ。戦争が避けられない状況の中で、何とか強硬派の隊士たちも助けようと幹部に直談判するも、それは隊の関知するところではないと相手にしてもらえない。笛の音色は悲しく聞こえた。森の悲しみを、極の感じたのだろうか。その悲しさが、砂世の元へ足を運ばせたのだろうか。

興味深いのは、同じ音色を聞いていた悌二郎が、「誰だ、こんな夜中に」と舌打ちして迷惑そうにしている様子。当たり前といえば当たり前だけど、人ってどんなに思っていても、全部が全部分かるわけないんだなと思った。極は、森このこと蔑んでみていたのに、その音色に心動かされてしまうんだもの。

閑話休題

砂世の話で思い出したのは、極の語った怪談だ。これだけが、自分の身に起きたことだった。

上様が夢枕に立った。生きている上様が夢枕に立ったのは、自分の想いが強かったからだと極は言う。目を開けると、上様がいた場所に刀が突き刺さっている。「この命、上様に捧げ奉る」と、その刀で腹を切る極が映し出される。

刀は男性性の象徴とも取れる。砂世は、極の子を腹に宿していたのではないかというのは、深読みのしすぎだろうか。