ネタバレなしでは語れない

映画大好き。感想はネタバレしないと語れないので、思いっきり結末にふれています。

THE YELLOW MONKEY IS HERE.

「天国旅行」のイントロを聞いた瞬間、鳥肌が立った。もともと好きな曲だったけど、惚れ直した。だって、いいんだもん。

 

正直、ベストアルバム全曲新録って聞いたときは、期待してなかったし、新しい曲が聞きたいって思ってしまったけど、よく考えたら、全曲新録のベストアルバムを出すって、怖いことでもあるよね。どーしたって、オリジナルと比べてしまうし、思い入れのある曲に関してはマイナスの感情を抱いてしまう人もいるわけで。

なんて、考えてたけど、MV見た瞬間、杞憂も何もかも全部吹っ飛びましたよ。だって、かっこいいんだもん。

「ドアを開けたら 見たような見たことない景色が キレイな色で塗りなおされて見えた」って、まさにこのアルバムのことだよね。今まで積み上げてきた経験と、それゆえの自信が、全部詰まってる。彼らの今の音は、こちらの杞憂なんか軽々と飛び越えて、鳴らされた瞬間、あぁやっぱり好きだと、素直にそう思う音なんだ。

 

今回、自分の中で一番「キレイな色の塗りなおされて」いた曲は「SO YOUNG」です。

THE YELLOW MONKEYが復活したとき、たくさんのファンの人が、思いをブログにつづっていた。彼らがいなかった15年間、仕事頑張ったり、結婚したり、子供ができたり、吉井さんのソロ追いかけたり、たくさんの出来事があったけど、自分は書けるほどないなって思ってた。「できるさ できるさ イエローモンキーのファンだもの」を心の支えに生きてきたことはなかった。

今回、「SO YOUNG」聞いたとき、素直にいいなーと思った。歌詞が、彼らのこれまでに思いをはせて聞くと、ぐっときて。今の彼らが歌い、奏でることにぐっときた。

パンチドランカーツアーの経験から生まれたこの曲を、当時の自分はそこまでいいなとは思わなかった。それを、今はいいと思える。それだけで十分な気がしてきた。

人に言えるような15年を過ごしてこなかったけど、この曲を当時とは違う思いで聞けるってだけで、その間自分は生きてきたってことで、変化はあったのだ。

さて、おセンチはここまでだ。吉井さんはもう50周年のことを考えている。このバンドの花はまだ咲ききっていないとまで言っている。どこまで行くつもりなんだろう。ただもうついていくだけだ。

ちょっと遅くなったけど、メジャーデビュー25周年おめでとうございます。

THE YELLOW MONKEYがいる、それだけで私の未来は明るい。それは、とても幸せなことなのです。

未来よ、こんにちは

夫の浮気と離婚、母親の認知症と死、誇りを持って取り組んでいる仕事も、時代に合わないと言われ、うまくいかない。どの出来事も、誰だってぶち当たってしまう可能性は大きいけど、当人にとってみたら大変だし、大事件なのだ。

人生の節目の出来ごとにどう向き合うか、今作の主人公ナタリーは、誤解を恐れずにいえば、何もしない。傍から見たら本を読んで冷静に受け流しているように見える。このナタリーの人物造形が見事だった。

 

もちろん、ナタリーだって全く行動しないわけじゃない。ただ、今までの物語の主人公になりうる人物像とは違うことが興味深い。今までだったら、出来ごとに自ら関わって、能動的に行動することで、解決していく主人公が多かったと思うのだ。それと比べると、やっぱりナタリーは本を読んでるだけ。(ではないけど)

 

ナタリーは起こったことを受け入れる。それは、ただ受け身で流されることとは違う。浮気した夫には毅然とした態度をとる。お詫びの印の花はすぐに捨て(このとき、イケアのショッピングバックだけを取りに戻るナタリーは最高だった!)、合いカギを返せと言い、お気に入りの彼の実家の別荘にはもう来ないと宣言する。

自身が監修した哲学の教科書が時代遅れだと告げられた時は、その精神を批判する。明るく手に取りやすい表紙は悪趣味だと切り捨てる。

理想の教え子に、自身の思想と行動が一致していないと批判された時も、自分の言葉で反論する。

ナタリーには大切していることがある。他人にどんなに批判されようとも守る。それは目に見えるものじゃないから、他人からは理解されないのかもしれない。ただ、私は知っている。ナタリーはいつも本を読んでいる。それがナタリーを支え、ナタリーが守ろうとしたもの、自分の思考だ。

 

今、「内向型人間のすごい力」という本を読んでいる。

内向型の特徴として、自分の思考や感情について考えるのが好き、周囲の出来事の意味を考える、一人でいることで気力を充電する。

対して、外向型は、外の世界や人と関わるのが好き、出来ごとに自ら飛び込んでいく、人と交流することでエネルギーを充電する。

ざっと書くと、こんな感じ。ナタリーは内向型。私も内向型。内向型って物語の主人公になりにくいと思うのだ。だって動かないんだもん。それでもこの作品は、見事に物語を紡ぎ、ナタリーの姿勢を揶揄することなく描き切った。作中、ナタリーの行動を馬鹿にするような描写がないのが、本当によかった。

 

ナタリーは大切な決断をする時も、夫の浮気に傷つき泣く時も、いつもひとり。予告では、離婚し、母親に死なれて、「気がつけば、私、おひとりさま?」なーんてコピー付いてたけど、ふざけんなですよ。気がつかなくたって、ナタリーはずっとひとりを選んできたんだよ。それは、人と一緒にいることを拒絶することではなく、寂しいことでもない。ひとりでいることが自分にとって大切だと知っているのだ。ナタリーは自分にとって何が大切か知っている。それを守っている。たくましい。

ナタリーの姿勢に、内向型主人公が紡ぎだした物語に、私は勇気づけられたのですよ。

ムーンライト

フアンに支えられて海に浮かぶシャロン。全身をフアンに預ける。信頼していないとできないこと。水面ギリギリから二人をとらえるカメラ。波で画面がおおわれるので、荒れているようにも見える。シャロンのこのあとを暗示しているように見える海。フアンに教えてもらって徐々に泳げるようになるシャロン

暗い部屋に一人でいるシャロン。フアンがそこに入ってくる時、壁を壊して光と一緒に入ってくる。そして、ドアを開けて外に導いてくれる。出会ったときから、出会ったときから、フアンはシャロンにとって生きる道しるべを示してくれる人だった。

「自分の人生は自分で決めろ。周りに決めさせるな」というセリフは、シャロンの生きていくための支えになると同時に、フアンのそうはできなかった人生も思い起こさせる。

 

「生きる道しるべ」なんて大げさな言葉を使ったけど、この作品にはふさわしくない気がする。もっと身近で、もっと気安くて、安心する存在。

ムーンライトの感想が上手く書けない。上手くというのは、文章の善し悪しじゃなく、それはいつものことだし、そうじゃなくて、語るにふさわしい言葉が出てこない。大袈裟な表現ではなく、簡素な言葉を使いたいのに、選んだ言葉じゃ物語に追いつかない。気持ちがぽろぽろ零れ落ちていく。

 

シャロンと自分は育ってきた環境が全く違うのに、置かれている家族の状況も、性的指向も違うのに、シャロンの気持ちが画面を通して伝わってきて、自分の中に入ってきて、それは見終わってからも抜けない。感想で、見終わってからじわじわと感ずる映画だというのを何個か見たけど、こういうことなんだろう。

大袈裟な感情表現も、劇的な描き方もせず、シャロンの日常を描きだす。シャロンの悲しみも、怒りも、喜びも、彼のものとして描かれているのに、自分の感情をそこに重ねて見てしまう。

リトルの中にも、シャロンの中にも、ブラックの中にも、自分を見た。

 

3部のブラックを見た時、胸が痛かった。筋肉も金歯も銃も車も、全部自分を抑え込み、守るための殻に見えた。強い男性性の象徴のような「殻」。そうしなければ、ドラックの売人という社会では生きてこれなかったのだろう。

ケヴィンと再会して、彼を正面から捉えた時の、目が、リトルだった、シャロンだった。私は泣いた。言葉が出てこない時の口元、立ち姿。ずっと、心の中にいたんだね、辛かったねって、泣いた。

シャロンが、今まで触れ合ったのは、あの時のケヴィンだけだと、告げた。周りに否定され、傷付けられてもシャロンが守り通したもの、それを尊厳というのだろう。

T2 Trainspotting

「夢中になれるものを探せ」と言われたスパッドが、ボクシングジムから出てくる。

目の前を20年前のレントンが駆け抜けていく。それを見送る現在のスパッド。一人きりになったスッパドを引きの画で映したのが、この映画の救いだった。

 

前作は今作を見る前日DVDで見た。当時見に行こうとは思っていたのに、タイミングを逃してしまい、結局見ずじまいだった。

T2を見て最初の感想は、あぁちょっときついなーだった。

前作で「未来を選べ」とあるが、彼らに選べる未来はなくて、仲間を裏切って大金を一人占めするという選択をしたレントンも、今作では結局エディンバラに戻ってきてしまう。

20年前に比べて綺麗になった街並みで、彼らは相変わらずだった。それが嬉しくもあり、悲しくもあった。今でも彼らに選べる未来なんてないのだ。

だから、スパッドが、クスリをやめて、レントンやシックボーイがやっても、自分はやらなかったことに、書くことで自分を表現できることを知ったことに、希望をみた。

スパッドが見送った20年前の自分たち。20年前と同じように街を駆け抜けても、音楽にのって踊っても、騒いでも、クスリをやっても、どこかに物悲しさがつきまとう。20年前には笑って見られた馬鹿な行いが、今回は笑えない。おかしいのに笑えない。

レントンも、シックボーイも、ベグビーも気がつかないが、スパッドだけがそれを客観視出来ている、それが映像的に表現されていたのが、最初に書いたシーンだったように思うのだ。

 

本当にきつかったんだけど、監督が4人を描く姿勢に愛があって、「お前ら、馬鹿だな―。まだそんなことやってんのか」って、シックボーイのバーで一緒にお酒飲んでる感じがする。彼らの姿は、今の自分にも重なってくるのだ。さっき、気がついてないって書いたけど、気がついてないわけがない。年をとってきて、周りは変わっていく中で、自分たちだけが変わっていない、変われないことに焦りを感じていないわけがない。

タイトルである「トレインスポッティング」の意味が明かされるシーンで、ベグビーの父親が出てくる。ベグビーが力に物を言わせる性格になってしまった一端が垣間見れる、酒におぼれて暴力的な父親。これをベグビーの将来と見たら、辛いんだけど、父から息子への連鎖を断ち切る存在として描かれているのが、ベグビーの息子だ。嫌々つきあった父親の泥棒行為を拒絶し、大学で勉強したいとの意思を表明する。殴れと迫る父親に手をあげなかった息子に、やはり希望をみた。

 

辛いし、物悲しいし、笑えるのに笑えないけど、これ以上はないくらい彼ららしい続編だった。

 

僕と世界の方程式

お父さんが言う「数学という才能があるから特別なんだよ」「人と違うから特別なんだよ」に、引っかかりを覚えながら見ていた。
ネイサンは確かに数学が得意。でも、まだ幼くて、これから成長して世界が広がれば自分より数学ができる人もいるだろうし、ネイサン自体の興味も数学以外に向くかもしれない。その時、ネイサンはどうなってしまうんだろうって、ことが引っかかってたんだと、チャン・メイを追うために数学オリンピック本番の会場から飛び出したけど、その後どうしていいか分からなくなってレストランで一人座ってるネイサンを見て気がついた。

合宿で会った自分より数学ができる人たち、勉強についていけず、コミュニケーションも苦手でメンバーの輪にも加われないネイサン。人と違うことがアイデンティティーだったのに、ここでは「人と違うこと」が普通のことになってしまう。そん中、ペアになったチャン・メイに惹かれていくが、母のジュリーから「数学よりも大切」なのか聞かれても、そんなわけがないと否定してしまう。

「数学という才能があるから特別なんだよ」「人と違うから特別なんだよ」
ネイサンは苦しんでいたんだと思う。その言葉を残して亡くなった父親の気持ちに応えたいと、数学を頑張っていたんだと思う。
大事な試験の時に必ず現れる、光の点滅。数学オリンピック本番でも現れ、それが何だったのかが明らかになる。
お父さんが亡くなった時に、ネイサンが見ていた光景なのだ。信号機の黄色、お父さんの流す血の赤、自分から流れる血の赤、泣き叫ぶお母さんの姿、割れたフロントガラスと、その向こうの光。
励ましてくれていたお父さんの言葉に、いつの間にか縛られるようになっていたのだ。それを振りきってネイサンは会場を飛び出す。

正直、「もったいない」と思ってしまった。
でも、ネイサンの目が真剣だったから止められなかったというマーティンと、彼にお礼を言って、ネイサンを決して責めないジュリー、そして、思い切って飛び出したはいいけど、どうしていいかわかんなくて、自分の行動にも戸惑ってるネイサンを見て、よかったねって思った。
特に、マーティンがネイサンを止められなかったことに、彼の変化を見て嬉しかった。
マーティンも数学オリンピックに出場するほどの頭脳の持ち主。だけど、病気のために数学を諦め、教師をしていた。昔を知るリチャードは、病気を言い訳に逃げただけだと手厳しい。数学を諦めたことも、病気のことも、何も気にしてないかのように飄々と振る舞っているマーティンだが、押しつぶされそうな不安を薬で抑え、ジュリーへの好意もなかったことにしていた。最初は鼻で笑っていたグループセラピーで、プライドを引きはがし、病気のことジュリーのことを告白するシーンは、私の中でのハイライトだった。
これがなかったら、マーティンはネイサンを止めていたと思う。そう思ったのは、「自分の教え子が数学オリンピックに出たこと」にアイデンティティーを見出す可能性があるから。でも、今のマーティンは、そんなものなくても自分の足で立っていけるのだ。
それはこれからのネイサンの姿でもあると思うのだ。ネイサンが世界と繋がる方法は数学だけじゃないはずだ。

見終わって、才能を生かさないなんてもったいないって思った自分に、人の人生にもったいないって失礼だろうって思った。ネイサンにしてみたら大きなお世話だろう。才能をどうするかなんて本人が決めることだ。人の人生にもったいないなんて言ってる暇があったら、マーティンのように、自分の足で立つことを目指さなければならない。
あと、「もったいない」には、せっかく頑張ってきたのに努力を無駄にするなんてもったいない、って気持ちもあった。だから、人の人生に、、、以下略。

ただ、女性陣の描写がちょっと残念だった。
ジュリーがネイサンを責めなかったのは確かによかったんだけど、ただ、あれだけ育てるのに苦労してたら文句の一つも言いたくなると思うのだけど。物分かりよすぎない?
チャン・メイは、合宿初日の夕食で、叔父が、あごで彼女にお茶を注ぐように命じるシーンがあって、姪だからなのか、女性だからなのか、その両方なのか、叔父が彼女のことを一族のための「道具」としてしか見ていないような描写がきつかった。でも、それ以外はただネイサンに寄り添ってるだけの存在としか見えなかった。残念。

あと、ルークが一人で繰り返し見ているDVDと、腕の傷のことを思うと胸が締め付けられる。数学なんか好きじゃないと自傷してしまう姿は、ネイサンの心の中でもあったんじゃないかって考える。だから、きっとルークにも数学よりも大切なものが見つかるはず。人と交わるための頑張りも、今回は失敗したけど、きっとうまくいくはず。でも、一人だと辛いから、マーティンを受け入れてくれたようなグループがあったらいいな。

モアナと伝説の海

「お嬢さん」に続いて、これもMADMAXFR!しかもこちらは、明らかに影響を受けている描写があり、テンションがあがる。
それは、モアナを襲うココナッツの海賊、カカモラの海賊船を見た瞬間、「これ、MADMAXじゃん、シタデルじゃん?!」と思った。戦闘シーンや移動方法も影響受けていて、見ていて楽しかった―
勝手に、他にも、モアナが自ら船を操るシーンにウォータンクを運転するフュリオサを重ね、イワオニさんたちが爆破してくれたような谷の崩落もあり、マウイが体を張ってテ・カァの雷を受ける場面ではニュークスを思い出し、涙。そして、ラストは、もう分かってる。マウイは来ないの。涙。
見終わってからネットで検索して、監督の一人がカカモラの戦闘シーンはMADMAXFRからインスピレーションを受けたと話している記事を読んだ。やっぱり!
関係ない箇所にまで、思いっきりMADMAXFRと重ねて見たけど、映画自体も素晴らしかった。(説得力ないかもだけど)

自分の心は、何を求めているのか、それをずっと問いかけてくる映画だった。
小さい頃から、どんなに父親に止められても海の向こうへの憧れを止められなかったモアナ。一度は諦め、村長の誓いの石を積もうと思ったその日、祖母から隠された伝説を聞く。それは、自分たちは元々冒険の民だったということ、そして、自分は海から授けられた緑に輝く石を、テフィティに返す使命を担っていることを知る。そしたらもうモアナの心は止められないのだ。

マウイを言いくるめ、テフィティの元を目指すモアナ。モアナもマウイも、正義感の強いまっすぐないい子ちゃんなんてありきたりな描き方をされていない。駆け引きもするし、ずる賢いし、弱いところもある。そんな奥行きのある描写が嬉しい。
そして、最初モアナは船を操れない。あんなに海の向こうへ出ることに拘っていたのに、モアナの島ではサンゴの向こうには出ていかない時期が長かったため、長い航海に耐えうる操縦や方角の読み方などの技術が受け継がれていないのだ。モアナは初めから何でも持っているお姫様ではない。冒険を通じで自ら獲得していくのだ。
あと、居心地のいい描写だと思ったのが、村長の娘であるモアナが村長になることに、「女のくせに」とやっかむような描写や、モアナが悩む描写がないこと。ディズニーではその段階は、もう描く必要もなく当たり前のことなんだろう。素晴らしい。
調子のいいマウイも、子供の頃親に捨てられ半神として生きてきた過去を持つ。テフィティの心の石を奪ったのも、人間に認められたかったから。変身するための神の釣り針を取りかえしてから、マウイの心の象徴であるタトゥーは、左胸、つまり自身の心から問いかける。「自分はどうしたいんだ」
周りから認められるとか、どう思われたいかより、自分の心はどうしたいのか、にマウイの意識が動いたのだ。

それは、モアナにも訪れる。テ・カァの雷を受けたマウイが去ってしまった後、モアナは海に石を返す。私にはできない、もっとふさわしい人がいるはずだと。その時、亡くなった祖母が現れる。そして、問う。「自分はどうしたいのか」
モアナは海に飛び込み石を探す。誰かに与えられたのではない、今度は自らが選んで石を掴みに行くのだ。

ラスト、モアナは、村長の誓いの石の上に貝殻を置く。それは、物語の始まりに海からモアナが贈られた貝殻だ。貝殻の上に石はもう積めない。もう誰も村に縛られることなく生きていく、そういう未来を目指す、それは、モアナの宣言のように思えるのだ。

ロザーナ

祝福のムードに包まれた再集結の時を経て、吉井さんが「勝負の年」と言った今年、一発目に鳴らされた新曲「ロザーナ」。
勝負の年の幕開けにふさわしい、決意を感じさせる曲として響いた。

キーボードで始めまるイントロに、正直、初めは若干の違和感を覚えた。ただ、そこにギター、ドラム、ベースが絡んでくると、一気に曲が転がりだす。


冒頭の歌詞「フワリフワリ乗っかった 黒いサルサのような 祝い のろし上げて 祝福の乾杯だよ 踊ろう ロザーナ」は、「祝福のムードに包まれた再集結の時」を表しているように思う。
そこに留まることなく、彼らは「長い旅」に出るのだ。
「長い旅」で思い出すのは、113本のパンチドランカーツアー。ツアー終了後、休養の期間を経て作成されたアルバム「8」。その中にある「DEAR FEELING」を、「ロザーナ」を聞いて思い浮かべたのは、同じフレーズがあるからだ。
「ふわりふわりと音をたてずに」
歌詞に「心の羽根」とあることから、「DEAR FEELING」では、羽根が舞い落ちる様子が思い浮かぶ。音も立てずに、誰にも気づかれないように。
「ロザーナ」では、「サルサ」のフレーズから、踊る女性のスカートが翻る様を想像した。祝福の乾杯をする大勢の人たちの視線を一人占めするように、彼女は舞うのだ。その女性がロザーナなのかもしれない。彼女は自信に充ち溢れている。誰にも気づかれないようになんてできない、もっと自分を見てほしいと、堂々と踊るのだ。
と、勝手に他の曲と並べてこじつけ。そのこじつけは続く。

「問題ない そう問題ないよ 太陽もうなずいたよ」と慎重な様子もうかがえるが、この後に私が最も惹かれた歌詞が来る。

「神様にしかチェスは動かせないの?」

疑問の形を取っているが、ここからは自らがチェスの駒を動かすのだという、意志が伝わってくる。神様が用意してくれた運命というものに、従うも従わないも自由、それを自らの意志で選びとっていくという思い。その旅の中で、「凍り付くような悲しみ 溶けるほどの喜び」といったような様々な感情を味わいながら、「答え」を探すのだ。
ここの「迷い続けた答えはなんて言ったの?」という歌詞は、後述するが、これが彼らの出した答えのように思う。

「ロザーナ」中最大の謎、「覗いてキャベツの中」。急にキャベツ、なぜにキャベツ?
気になって調べてみたら、キャベツに花言葉があることを知った。
「巻いた葉の中に利益のある『宝物』が入っているようなイメージから、利益」が花言葉だという。西洋では中に赤ちゃんが入っているとイメージされるとのことで、実は、これを知る前に、ツイッターのTLにキャベツに乗った赤ちゃんの写真が流れてきて、ちょっと驚いたのだ。
覗いた中にあるのは、宝物、赤ちゃん=新しい命。吉井さんがモバイルサイトの中で、ロザーナは「新しい自分」の象徴であるかもしれないと書いていたが、そのことが伝わってくる。そのことは続く「大きな卵の殻 割れて現れた魂が 歌った」でより明らかになる。

この歌詞を聞いて真っ先に思い浮かんだのは、渡辺あやさん脚本の朝の連続テレビ小説カーネーション」のワンシーン、直子覚醒だ。大阪から東京に出て美術の学校に通うことを決めた直子だが、着て行く服が決まらず、高校の制服で上京する。姉に馬鹿にされながらも制服で通い続ける直子は、ある時自分は何者か、自分は洋服を通じて何を表現したいのかに気がつく。その時象徴的に使われるのが、卵が割れるという表現だ。その直前、子供のころから聞いていただんじりの音、お母ちゃんのミシンの音、そして自らが手を動かして描くデザイン画の鉛筆を走らす音が重なりあう。それらの音は直子の内側で鳴っている音なのだ。それが頂点に達したとき、卵が割れる。直子の中で何かが目覚める。その後の直子は、自分の好きな格好を堂々とする。母親にお化け、姉にオウムと思われようが、誰にどう思われようが関係ないのだ。
他の曲どころか、バンドとは全く関係のない、自分の好きなドラマを引用してのこじつけ。楽しい。
そして、「大きな卵」=「BIG EGG」と、東京ドーム公演とかけていて、吉井さんのお得意の遊び心がのぞく。

つぼみの中、キャベツの中、卵の中。内側で温めていた「新しい命」は、自らが積み上げてきた音を鳴らすことで、その姿を表に現す。それが、「答え」だ。
先述した、「迷い続けた答えはなんて言ったの?」がここに繋がる。答えは自分の中にあって、それを答えとして発見するのも自分自身ということ。

そして曲のハイライト、「ドアを開けたら 見たような見たことない景色が キレイな色で塗りなおされて見えた」
だから、私はTHE YELLOW MONKEYを聞くのだ。同じような毎日が違って感じられる、そんな感覚をくれるから。

「ロザーナ」から受け取るメッセージは、自分たちは自分たちの信じた音を鳴らし続けるということ。やっぱり彼らは現在進行形だ。
デビューの日に当たる、5月21日には、ベストアルバムをセルフカバーしたアルバムが発売される。過去の音源が今の彼らの音でどう鳴らされるのか楽しみだし、「追憶のマーメイド」が入っているのがさらに期待を高める。
そして、吉井さん曰く「新しいファーストアルバム」でも、その音を聞かせてくれるという。楽しみだ。